「共依存・からめとる愛 苦しいけれど、離れられない」信田さよ子
これはよかった、オススメだよ。
(とは言うものの、マニア向けかなぁ・・・どんなマニアだ?)
著者は臨床心理士でカウンセラー。
長年にわたる実践と経験から、複雑な人間心理を洞察している。
本作品では、「共依存」をキーワードに「愛」を分析していく。
P97
対象を自分なくして生きられなくしていくこと、依存されたい欲求を満たすこと、これらは暴力で相手を屈服させるよりはるかに隠微で陰影に富んだ快感をもたらしてくれるだろう。
P124
児童虐待防止法の第2条四によれば、子どもがDVを目撃することは「児童に著しい心理的外傷を与える言動」であり、虐待だと定義される。2003年に改正されたこの定義は大きな意味をもつ。これまでは父が母に暴力や暴言を行使しても、直接子どもに向けられなければ虐待ではないと考えられていたからだ。妻にDVをふるうことは同時に彼らが子どもを虐待することを意味する。
P141-142
かけがえのなさとは、交換不可能、唯一無二とも表現できる。恋愛において、このかけがえのはなさ相互的であると考えられている。だから、ふたりの結びつきは強固となり、「あなたしかいない」「君しかいない」という排他的な世界が構成される。
しかしかけがえのなさがいつも相互的であるとは限らない。たとえは、生まれたばかりの新生児にとって、母親とはかけがえのない存在である。生命維持のためにも、あらゆる発達のためにも、新生児にとっては親はかけがえのない存在である。しかし、親にとって新生児はかけがえのない存在だろうか。そのかけがえのなさは主として心理的・情緒的紐帯に限定されている。むしろ経済的・時間的には負担を強いられる存在でもあり、相互的とはいえない。
かけがえのなさが非相互的な場合、その関係は非対称的で権力的なものになる。つまりかけがえのない存在になったほうが、もう一方に対して強者となり権力的になりうるということだ。
親は、だから子どもにとって強者であり、権力的な存在である。子どもの虐待を見ればそれは明らかだ。親以外に自分を養育してくれるひとがいない(かけがえのない)ことを子どもはよく知っている。その親に殴られたり食事を取り上げられたりすれば、それは自分が悪い子だからと思うしかない。
P148
かわいそうな他者をわざわざ選ぶひと、なんらかの障害をもった他者に近づくひとは珍しくない。これらは、ヒューマニズムあるれる自己犠牲的選択に見えるが、「かけがえのなさ」が非対称的でれば、そこから容易に共依存という対象支配が生まれる。ところが相手に尽くしているとしか考えないひとたちは、支配していることに無自覚である。
P162
妻として母として彼女たちが家族を生き抜くためには、子どもを支配するしかなかったこと、そんな必然として共依存をとらえれば、明らかにマイナスのラベルであるこの言葉が、それ以外に残されていなかった選択肢であることがわかるだろう。そう自覚されることで、おそらく別の選択肢もぼんやりと見えてくるかもしれない。しかしそれは彼女たちにとって残酷なことでもある。自覚することによって、初めて彼女たちが子どもに行使した支配の責任が浮かび上がるのだから。
P167
おそらく、DVという言葉もない時代に、夫の暴力と浮気の日常に対処するひとつの方法は、夫を「大きな息子」として子ども扱いすることだった。過去形で書いたが、現在でもカウンセリングにやってくる女性たちの多くが、夫の行状(暴力、浪費、浮気など)を耐えてやり過ごすために「夫を3番目の子どもと思うことにしました」「男の人って、なんて幼稚なんでしょうね」と、夫を子どもの位置に、自分を母親の位置に立たせる。近代文学の登場人物の男性像が、多く「頑是無い子ども」として描かれていることとそれは無関係ではないだろう。日本では、男性(父)の「子どもの座の占有」は、広く社会的に容認されている。結婚した多くの女性も、不承不承それに慣らされていく。そのためには、夫を子どもとして支配し所有したという幻想が不可欠だ。
P170
子どもである夫と母としての妻という構図は、アルコール依存症の夫婦を例にするとよく見える。妻たちが、アルコール依存症の夫をケアし保護することで、却って夫の回復を阻害してしまうこと、これがそもそもの共依存の語源だった。夫を保護することが、まるで夫に依存しているかのように見えたので、嗜癖者に依存する「共依存」と命名されたのだ。彼女たちは果たして夫に依存していたのだろうか。むしろ、彼女たちは夫に依存しているというより、夫をケアし支配する快感を得、子ども扱いすることで、所有欲を満たされていたのではないだろうか。
最後に、著者は講演に行くとしばしば次のようなことを聞かれるそうだ。
「よくストレスが溜まりませんね、どのようにしてストレスを発散していらっしゃるんでしょうか」
これに対して、次のように書かれている。
P10
そもそも人生の暗部や家族の裏側の話を聞くことにストレスを感じるひとは、こんなハードな職業に就くべきではないだろう。むしろクライエントの話を聞くと、脳内麻薬(エンドルフィン)が放出されるようなひとこそふさわしいと思う。私は明らかにそのタイプの人間なのだ。この上なく悲惨で奇怪な話を聞くことで、人間の不可思議さに触れ、私の頭の中を秩序立てていたパラダイムが音を立てて崩れ落ちる瞬間の開放感を味わう。これを抜きにカウンセラーを続けることなどできないだろう。それはどこか文学を読みふけることで得られる満足感と似ている。
PS
この本を読もうと思ってチェックしたのは2年前のこと。
フリーライター前原政之さんのブログ・紹介文を読んだから。
(この方のブログは興味深い本を紹介してくれて、けっこう参考になる)
【参考リンク】
信田さよ子『共依存・からめとる愛』
【ネット上の紹介】
依存は悪ではない。鍵を握るのは依存させる人なのだ。「愛だったはずなのに、なぜ苦しいのか」への明快な答えがここにある。長年、家族援助をしてきたベテランカウンセラーである著者が、愛という名のもとに隠れた支配・共依存を解明する。
[目次]第1章 アダルト・チルドレンと共依存;第2章 共依存とケア;第3章 ケアする男たち;第4章 『風味絶佳』は「風味絶佳」だ;第5章 「冬のソナタ」は純愛ドラマか?;第6章 母の愛は息子を救えるか?;第7章 かけがえのなさという幻想;第8章 暴力と共依存;第9章 偽装された関係