百醜千拙草

何とかやっています

パワーサイエンス

2007-03-28 | 研究

Murchison EP, Hannon GJのGenes and Developmentに発表されたOocyteでのDicerの役割を調べた論文を読んで。
自分自身もmicroRNA (miRNA) を細々とやっているので体験的に学んできたことなのですが、miRNA研究には必然的にゲノムレベルのBioinformaticsのアプローチが必要になってきます。これは、昔ながらのマウスリバースジェネティクスや分子細胞生物をやってきたものには取っつきにくいものです。普通の遺伝子のKnockout (KO) であれば、表現型の解析と遺伝子の過去の知見からメカニズムの仮説を立てていくので、ごく一般的なアプローチでまかなえます。DicerのKOに関しては、間接的にmiRNAを主とするsmall RNAをKOするわけですから、メカニズムの仮説を立てる時点で、いったいどのmicroRNAが表現型に影響しているのか、そしてどの遺伝子がmiRNAによって制御されているのかという点が主題となってきます。普通、各組織における数百種のmiRNAの発現量、一つのmiRNAに対して数百ある標的遺伝子の発現、それらを考慮して仮説を立て、miRNAや遺伝子の発現profileを行った上で、最終的に制御されている遺伝子を塩基相補性に基づいたアルゴリズムで「あてる」わけですが、なかなかあたりません。この論文でも、miRNAとgene expressionのプロファイルからOocyteのターゲット遺伝子を探った検討では特に有意義なinteractionは見当たらず、強いて言えば、AU-richな3’UTRを持つ遺伝子が、Dicerを潰したことでupregulateしたことが述べられています。またマウスのトランスポゾンの発現がDicer KOで上昇していることが認められています。これらのことは、miRNA-target RNA interactionを中心に、Dicer KOの表現型の解釈に迫ろうとする「正当派」アプローチに疑問を投げかけるものではないでしょうか。RNAのdegradationの主たる場であるprocessing (P) bodiesの形成にmicroRNA biogeneisのcomponentsが必要であるという論文が昨年あたりに出て衝撃を受けたものですが、今回の論文も何となくそのあたりに関連してそうです。MiRNA/siRNA研究がますます面白くなっていくのはいいのですが、それについていくのがなかなか大変です。
この手の論文を読むと、科学界の格差社会を感じずにはおれません。こういう言葉があるかどうか知りませんが、言ってみれば「パワーサイエンス」の時代なのではと感じます。Cold Spring Harborなり、MITなり、トップの研究所は、優秀な人材、潤沢な資金と最先端のテクノロジーで、網羅的にデータを作り出していきます。これまでの多くの科学の進歩はserendipitousな思いもかけないような発見に導かれてきたように思います。これは個人的な丹念な努力の積み重ねのなかから、ちらりとのぞくダイヤモンドをつまみ上げるようなもので、いくらパワーがあっても幸運をつかみ取る目と力のあるものにしか得られないものだったような気がします。エジソンは天才は99%の発汗と1%のひらめきと言ったそうですが、最近のテクノロジーの進歩を見ると、少なくとも発汗の部分に関しては、様々な機械が高い効率でやってしまいます。そういったシステムを持てるものと持たざるものとの差が、少なくとも論文の出版というレベルで見ると、大きく影響しているように見えるのです。パワーのあるものは、まずデータを作り出してそこから仮説を立ち上げます。パワーのないものは、仮説を練ってあたりそうなものから順番に試していくという作業になります。同じ主題で研究すれば、後者が前者に勝てないのは当然であろうと思います。なんだかんだ言っても、いくらすぐれた仮説も1片のデータには結局勝てないのですから。
先日、シークエンシングプロジェクトを思いついて、454 pyrophosphate sequencingの見積もりを出してもらいました。4サンプルで$8.000 – 10.000とのこと。ちょっと手がでません。むかし、自分でシクエネースを使ってシークエンスしていたころのことを思い出しました。もし同じ量のシークエンスをしないといけないとしたら、454シークエンサーが一晩でできることを、昔ながらのシークエンシングでは10年かかってもできないでしょう。そう思えば、454 の金額は破格値と言えないこともありません。こうした最新機材を駆使しデータを量産し、それを最新のBioinformaticsで解釈していくとなると、それだけの資金的、構造的かつ知的体力のあるところに限られてしまいます。少なくと雑誌レベルではそうした研究室のモノポリーを感じざるを得ません。そうでない一般-零細研究室が、この格差社会にあって、どう自己実現し、科学界そして社会に貢献していけるのか、なかなか悩ましいところです。
コメント
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