親の恩というものは、なかなかわからないものらしいです。親が自分にしてくれたことを客観的に眺めれば、とんでもない量の世話と苦労をしてくれたことはよくわかるのですが、その実感というのものに乏しいというのでしょうか。自分が親になれば、親のありがたさがよくわかるという人もいましたが、いまこうして自分が9歳と6歳の子持ちになってみると、むしろこんな親の子供に生まれて気の毒だなあと、子供に同情することのほうが多いような気もします。私の実父は、私が二十歳の時に亡くなりました。いろいろ苦労の多い晩年だったように思いますが、死んだときは、くも膜下出血だったのであっという間でした。生きている父と最後に過ごしたのは、いつどういう時だったのか思い出せません。仕事も朝早く、普段から余り顔をあわすこともありませんでした。二十歳の自分に親をおもいやったり、孝行を考えたりするはずもないのは無理もないのですが、親孝行らしいことのひとつもする機会なく、死に別れてしまったことは、今更ながら残念です。母は健在ですが、老いてきています。私と母はあまりウマがあいませんでした。母はうるさ型で、いわばコントロールフリーク、私は一人でほっておいて欲しい方なのです。母が小言を連発している間は、私は黙っているわけですが、それは「うるさいからやめてくれ」というとけんかになるから黙っているだけで、しおらしく説教をきいているわけではないのです。そのうち、私に何の反応もないので、母の小言はますますエスカレートしてきて、じっと我慢しているうちにやがて我慢も臨界点に到達し、やっぱりけんかになってしまいます。「沈黙」の意味を理解しようとしない人に対してこの作戦はむしろ状況を悪化させる一方なのですが、他に手段も思い浮かびません。しかし、このように母の悪口を書いても、母に感謝していないということではありません。自分が年をとると、自分の中に自分の親の欠点があることを、実感させられます。自分が子供にがみがみ言うとき、自分にがみがみ言っていた母を思い出します。それが心から嫌なのですが、かといってそれをコントロールできるわけでもなく、思わず母を責めたくなります。母もおそらくその性向をその両親から受け継いだのでしょうから、結局、誰が悪いというものではもちろんないのですが。私は心の中では、とりわけこうして遠方に離れている間は、母に感謝しているのですが、それを口にする適当な機会もみあたらず、あえて言うのも照れくさいので、何も行動に移していません。それにおそらく実際に口を利いたら数時間後にはけんかになりかねず、結局言わぬが華ということになってしまいそうな気もします。
結局、人と人のつながりというものは、このようなものなのでしょう。弱いようで強く、強いと思っているほど強くもないのだろうと思います。親子や家族の関係であれ、友人や知人の関係であれ、他人の関係であれ、自分がコントロールできるのは自分自身のそれも一部にしか過ぎないのですね。自分が引け目に思っているほど親の方は息子の薄情をどうとも感じていないようにも思います。結局、親でも子供でもみんな自分の人生に忙しいのですから。あれこれ考えては不義理と不孝を詫びず、感謝の言葉を口にしないことへの言い訳を並べているような気になってきました。もう少し年をとれば素直ないい人になれるのかも知れません。
結局、人と人のつながりというものは、このようなものなのでしょう。弱いようで強く、強いと思っているほど強くもないのだろうと思います。親子や家族の関係であれ、友人や知人の関係であれ、他人の関係であれ、自分がコントロールできるのは自分自身のそれも一部にしか過ぎないのですね。自分が引け目に思っているほど親の方は息子の薄情をどうとも感じていないようにも思います。結局、親でも子供でもみんな自分の人生に忙しいのですから。あれこれ考えては不義理と不孝を詫びず、感謝の言葉を口にしないことへの言い訳を並べているような気になってきました。もう少し年をとれば素直ないい人になれるのかも知れません。