「Science」誌の現チーフエディターのDonald Kennedyがしばらく前にステップダウンを表明しましたが、8月10日号のEditorialで、Kennedyは先月亡くなったDan Koshlandについて語っています。KoshlandはUC Berkleyの生化学の教授でしたが、Kennedyの前の1985年から1995年の十年間、「Science」のチーフエディターを務めたのでした。 同号の「Perspective」のセクションに彼の遺稿(?)となった一文が掲載されており、過去の科学的発見がおこった機序についての考察がされています。「The Cha-Cha-Cha Theory of Scientific Discovery」とヒューモラスに題された小文では、過去の科学的発見のメカニズムは、Charge, Challenge, Chanceの三つに分類可能であるとの意見を述べています。「Charge」による発見というのは、皆が認識しているありふれた問題の中に凡人の考えつかない法則を見いだす場合です。その例として、リンゴが落ちるという当たり前の現象の中に惑星の運行を制御するのと同じ法則を見いだしたニュートンの万有引力の発見をあげています。「Challenge」による発見は、科学的知見の蓄積のよって明らかになってきた問題に対して、解答を発見するような場合で、例としてケクレのベンゼン環の構造の発見があげられています。第三の「Chance」による発見は、いわゆるセレンディピシャスな発見であり、パスツールのいうところの「準備された心」によって通常見過ごされるようなものが発見されるという場合です。この例としてはフレミングによるペニシリンやレントゲンのX線の発見があげられています。
この小文を読んでみて、このCha-Cha-Cha 説がどれほど現実に即しているのか、またそもそもこういう分類をすることに何らかの有用性があるのか、私自身はちょっと疑問に思ったのです。文中で述べられているように、殆どの大発見は単一の「Eureka!」的一瞬に頼っているわけではなく、それに至るまで、またそのひらめきを得たあとの地道な検討によって大発見に育っていくものだと思います。ケクレがベンゼン環の構造を思いついたのは、尻尾をくわえて輪になっている蛇を夢で見たからであるという有名な話がありますが、本当に夢から発想を得たのか、あるいは発想を得たから夢に意味が与えられたのか、または時間を経るうちに話に誇張が入ってより重要でない部分が省かれ、象徴的なエピソードだけが残ったのか、本当のところはわかりません。私が想像するに、この発見も夢にみるほど普段から頑張っていたからできたのだろうと思うのです。後になって大発見と考えられるものには必ず歴史の修飾が入りますから、科学的大発見に至るまでの事実というものは、おそらく一般に知られている程簡単に記述できるものではないのではないかと思います。私の限られた小さな発見の経験を振り返ってみても、一つの発見にこのCha-Cha-Chaの要素の全てが多かれ少なかれ関与しているように思います。どんな発見であっても十分に準備された心がなければ発見には至らないでしょう。その心の準備は普段からの地道な努力によってしかなされないものだと思います。
この小文を読んでみて、このCha-Cha-Cha 説がどれほど現実に即しているのか、またそもそもこういう分類をすることに何らかの有用性があるのか、私自身はちょっと疑問に思ったのです。文中で述べられているように、殆どの大発見は単一の「Eureka!」的一瞬に頼っているわけではなく、それに至るまで、またそのひらめきを得たあとの地道な検討によって大発見に育っていくものだと思います。ケクレがベンゼン環の構造を思いついたのは、尻尾をくわえて輪になっている蛇を夢で見たからであるという有名な話がありますが、本当に夢から発想を得たのか、あるいは発想を得たから夢に意味が与えられたのか、または時間を経るうちに話に誇張が入ってより重要でない部分が省かれ、象徴的なエピソードだけが残ったのか、本当のところはわかりません。私が想像するに、この発見も夢にみるほど普段から頑張っていたからできたのだろうと思うのです。後になって大発見と考えられるものには必ず歴史の修飾が入りますから、科学的大発見に至るまでの事実というものは、おそらく一般に知られている程簡単に記述できるものではないのではないかと思います。私の限られた小さな発見の経験を振り返ってみても、一つの発見にこのCha-Cha-Chaの要素の全てが多かれ少なかれ関与しているように思います。どんな発見であっても十分に準備された心がなければ発見には至らないでしょう。その心の準備は普段からの地道な努力によってしかなされないものだと思います。