本棚を片付けていたら、10年余り前の本が出てきて、思わず読み出してしまいました。ドリーのクローニングの論文がネイチャーに出てまもなくして出版されたこの雑誌は多様性の生物学というタイトルの特集号で、その中では柴谷篤弘と盛岡正博のクローニングに関しての対談も収録されています。この本の中の京大の川出由巳さんの「自然学としての生物記号論」というエッセイを改めて読み直して見ました。極めて近視的な現代生命科学の方法論からちょっと距離をおいてみると、現代においても生物学はもっと豊かな文化としての学問でありうる可能性があると思います。エッセイの要点は、今西錦司の提唱した自然学は、現代の生物記号論者の考えと極めて近いということを指摘していることにあります。文中に述べてある通り、生物記号論は、「生物とは意味を解釈する存在、意味を創造するものである」という立場で生物学を研究していこうとする態度です。
少し長いですが、出だしと途中を抜き出してみます。
生物学はどこへ向かうのか。
二十世紀後半の分子生物学の登場によって生物学は著しく物理科学化した。物理学を科学の模範とする一般の風潮に従って、これは生物学の進歩と解される。複雑で多岐にわたる生物の世界に、普遍的で単純な法則性が見いだされ、多様な生命現象の説明を求めるための確固たる基盤が出来た。しかしこれは同時に生物を分子機械の集合とみる機械論を助長し、生物を人間の操作の対象と見なす技術的生物観を強化する。分子生物学の最大の衝撃は、生命現象の分子機構の解明といった科学的なことよりも、むしろ生物学を技術化したことにあるのではないだろうか。組み替えDNA技術その他に見られるように、分子生物学は広大な技術的可能性を開いたので、ある程度の訓練を受けた人を集め、資金を投入しさえすればやりうる仕事がいわばいくらでもあるという状況が生まれた。生物学は歴史上はじめて大々的に人間の役に立つものとなり、医療技術や農工業生産にひろく利用されるようになった。生物学は現在非常な勢いですすめられているが、その広い範囲にわたってそれがもはや科学とよぶよりは技術基礎学と呼ぶのがふさわしい類の仕事になっている。
(中略)
近代科学としての生物学はどうか。十八―十九世紀の変わり目あたりに誕生した生物学がそれまでの博物学と決定的に違うのは、生物に共通する原理として生命というものを認識したことだった。それ以前には科学的認識の対象としては生命の概念は存在せず、存在したのはもろもろの生き物だったにすぎないといわれる。(中略)
分子生物学については二つのことをいいたい。まず、それが対象とした生命の原理とは何だったのか。初期のデルブリュックその他の研究者たちが生物に特有でもっとも基本的な性質として、増殖と遺伝に的をしぼったとき、すでに生物の物理的、機械的側面だけが抽出されていたのである。生命の神秘が物質の言葉で明らかにされるなどという言い方がされていたが、分子の言葉で生命現象のメカニズムが語れるようになってみれば、解明されたのは物理的、機械的なことがらばかりではないか。(中略)
このようにこのエッセイでは、現代生物学が、組み替えDNA技術の開発とそれによる分子レベルでの生物の記載が可能になったために、その機械的側面の理解は進みましたが、むしろそれ故に生物の機械的側面を研究することこそが生物学であって、生物そのもの、自然そのものを研究するという生物学、自然学の本来の立場から乖離していきつつある現状についての批判から始まります。生物に共通する原理としての生命は、意味を創出し解釈する存在であるという考えは、分子生物学が推進した現代生物学が生物に与えたパラダイムとはすれ違います。現代生物学では、生命については研究しないのです。この十年前のエッセイの要点は未だに真実であるばかりか、現代生物学が生物の機械的側面のみしか扱わないとする態度はますます強くなってきていると私は思います。それは現代生物学の技術が人体その他に利用できるから優れているという単純な価値観が基礎にあると思います。利用できるものはお金になるのです。
残念なことに、意味的存在としての生物を学問しようとすると、いわゆる「客観性」を保つことができなくなります。意味は解釈するものの主体があって始めて意味があり、それ故に主体や解釈するものの立場を離れて客観的に事物は存在しているとの前提から出発する近代科学の最初の公理を疑うことに繋がるからです。(事実、量子力学が明らかにした一つのことは観測者はシステムの外側から客観的立場で観察することはできず、観察者は既にシステムの内部に存在しているということでした)早い話が、現代生物学は生物の機械的側面のみしか扱わないと限定することによって発展してきたと言えるでしょう。こうした生物においての意味論を議論する人々は、現代生物学が生物の機械的部分の研究であるという限定を忘れて、あたかも生物は自動機械以上の何ものでもないと考えてしまう傾向を危惧しているわけです。生物の意味的側面を科学的手法で研究することは困難です。じっさいこの手の研究は結局、哲学的議論の枠内に収束してしまうのです。しかし、私はこうした生物学における意味論的な議論が常に生物学の分野の中で進行していることは極めて重要であると思います。現代生物学では、眼に見えるものしか扱えません。見えないものは存在していないのと同じという態度です。見えないから無いとは結論できません。本来「生命」とは何かを問う生物学が、「それはよくわからないから議論するのは置いといて、とりあえず生物を分子機械とみなして研究する方が沢山データがでるからその方向でいきましょう」という感じで進んできている、そういったことを、現代生物研究者は意識しておくべきではないかと私は思うのです。
少し長いですが、出だしと途中を抜き出してみます。
生物学はどこへ向かうのか。
二十世紀後半の分子生物学の登場によって生物学は著しく物理科学化した。物理学を科学の模範とする一般の風潮に従って、これは生物学の進歩と解される。複雑で多岐にわたる生物の世界に、普遍的で単純な法則性が見いだされ、多様な生命現象の説明を求めるための確固たる基盤が出来た。しかしこれは同時に生物を分子機械の集合とみる機械論を助長し、生物を人間の操作の対象と見なす技術的生物観を強化する。分子生物学の最大の衝撃は、生命現象の分子機構の解明といった科学的なことよりも、むしろ生物学を技術化したことにあるのではないだろうか。組み替えDNA技術その他に見られるように、分子生物学は広大な技術的可能性を開いたので、ある程度の訓練を受けた人を集め、資金を投入しさえすればやりうる仕事がいわばいくらでもあるという状況が生まれた。生物学は歴史上はじめて大々的に人間の役に立つものとなり、医療技術や農工業生産にひろく利用されるようになった。生物学は現在非常な勢いですすめられているが、その広い範囲にわたってそれがもはや科学とよぶよりは技術基礎学と呼ぶのがふさわしい類の仕事になっている。
(中略)
近代科学としての生物学はどうか。十八―十九世紀の変わり目あたりに誕生した生物学がそれまでの博物学と決定的に違うのは、生物に共通する原理として生命というものを認識したことだった。それ以前には科学的認識の対象としては生命の概念は存在せず、存在したのはもろもろの生き物だったにすぎないといわれる。(中略)
分子生物学については二つのことをいいたい。まず、それが対象とした生命の原理とは何だったのか。初期のデルブリュックその他の研究者たちが生物に特有でもっとも基本的な性質として、増殖と遺伝に的をしぼったとき、すでに生物の物理的、機械的側面だけが抽出されていたのである。生命の神秘が物質の言葉で明らかにされるなどという言い方がされていたが、分子の言葉で生命現象のメカニズムが語れるようになってみれば、解明されたのは物理的、機械的なことがらばかりではないか。(中略)
このようにこのエッセイでは、現代生物学が、組み替えDNA技術の開発とそれによる分子レベルでの生物の記載が可能になったために、その機械的側面の理解は進みましたが、むしろそれ故に生物の機械的側面を研究することこそが生物学であって、生物そのもの、自然そのものを研究するという生物学、自然学の本来の立場から乖離していきつつある現状についての批判から始まります。生物に共通する原理としての生命は、意味を創出し解釈する存在であるという考えは、分子生物学が推進した現代生物学が生物に与えたパラダイムとはすれ違います。現代生物学では、生命については研究しないのです。この十年前のエッセイの要点は未だに真実であるばかりか、現代生物学が生物の機械的側面のみしか扱わないとする態度はますます強くなってきていると私は思います。それは現代生物学の技術が人体その他に利用できるから優れているという単純な価値観が基礎にあると思います。利用できるものはお金になるのです。
残念なことに、意味的存在としての生物を学問しようとすると、いわゆる「客観性」を保つことができなくなります。意味は解釈するものの主体があって始めて意味があり、それ故に主体や解釈するものの立場を離れて客観的に事物は存在しているとの前提から出発する近代科学の最初の公理を疑うことに繋がるからです。(事実、量子力学が明らかにした一つのことは観測者はシステムの外側から客観的立場で観察することはできず、観察者は既にシステムの内部に存在しているということでした)早い話が、現代生物学は生物の機械的側面のみしか扱わないと限定することによって発展してきたと言えるでしょう。こうした生物においての意味論を議論する人々は、現代生物学が生物の機械的部分の研究であるという限定を忘れて、あたかも生物は自動機械以上の何ものでもないと考えてしまう傾向を危惧しているわけです。生物の意味的側面を科学的手法で研究することは困難です。じっさいこの手の研究は結局、哲学的議論の枠内に収束してしまうのです。しかし、私はこうした生物学における意味論的な議論が常に生物学の分野の中で進行していることは極めて重要であると思います。現代生物学では、眼に見えるものしか扱えません。見えないものは存在していないのと同じという態度です。見えないから無いとは結論できません。本来「生命」とは何かを問う生物学が、「それはよくわからないから議論するのは置いといて、とりあえず生物を分子機械とみなして研究する方が沢山データがでるからその方向でいきましょう」という感じで進んできている、そういったことを、現代生物研究者は意識しておくべきではないかと私は思うのです。