百醜千拙草

何とかやっています

悪い社会

2007-08-24 | Weblog
2日前、ハリケーン、ディーンがメキシコのユカタン半島の東海岸を直撃しました。ユカタン半島の東海岸は北端のカンクーンから始まって、南の隣国、ベリーズに至るまで、メキシコの中ではアメリカおよびヨーロッパからの観光客がもっとも多く訪れる所です。海岸沿いはお洒落なホテルやリゾート断続的に並んでいます。ユカタン半島はまた古代文明の地でもあり、多数のマヤ遺跡が平坦なジャングルの中に点在しており、大変エキゾティックな土地でもあります。ハリケーンの眼はカンクーンとメキシコとベリーズの国境との間ぐらいを通過したようです。このあたりには海岸沿いに残るトウルムのマヤ遺跡があります。多くの遺跡は内陸にあるのですが、このトウルムの遺跡は例外で、海を背にした神殿を中心に建物跡が点在し、それらを守るように壁が築かれています。カリブのエメラルドグリーンの海を背景に建つトウルムの神殿は、他のマヤ遺跡とひと味違った美しさがあります。この遺跡から少し南の海岸沿いは観光客相手のホテルが並んでいますが、少し内陸よりのトウルムの街中に入ると、一本のメインストリートだけは観光客のためのレストランや土産もの屋などで華やかなのですが、それ以外は粗末な家が並んでいます。この街をぬけてさらに内部の村にいけば、この一般住民の貧しさというものがもっと明らかに実感できます。この観光客の宿泊場所や有名なチチェンなどのマヤ遺跡の周辺の華やかさと、一般現地住民の貧しさの対比というのは、ちょっと気がめいります。
スペインがメキシコを植民地にした時、スペインは2つの方法で現地をコントロールしました。宗教と混血です。スペインは現地人男性を虐殺し、現地女性を強姦するという積極的混血政策により、現地人とスペイン人との混血児を大量に作り出しました。彼ら混血児はスペイン人の道具となり、メキシコの植民地化を促進しました。一方で各地にカトリックの教会を建て、カトリックの戒律によって内的にも現地人および混血人をコントロールしたのです。過去のこうしたメキシコの植民地政策を見ていると、このスペイン人たちのやりかたには反吐が出ますが、戦時中には多かれ少なかれ、どこの国でも人を人とも思わない蛮行が見られるものですから、別段スペイン人に限ったことではありません。しかし、この場合の現地住民の男性を虐殺し女性を強姦するのは戦争の混乱に乗じたものではなく、メキシコの土地を収奪するための意図的な国家の政策であったのですからおぞましいです。単に利用するためだけに現地人の女性との間に無理矢理自分の子供を作るのですから、私たちの感覚からすると、そこには愛とか家庭とか、子供にとって自分の存在理由に必要なものがそもそもなく、非常に殺伐とした動物未満の世界があるだけです。とにかく、そうして作られた教会とその周囲のスペイン様式の建物は現在にいたるまでメキシコ各地に残っており、そうしたスパニッシュコロニアルの街が国外からの観光客のための観光地となっています。しかし、ここでも観光客の集まる場所から一歩はずれると現地の人の貧しい生活が現れてきます。日本でも経済的なクラス分けは勿論ありますが、メキシコや同じくかつてはスペイン領だったフィリピンではもっと露骨です。一部の金持ちはビバリーヒルズに住むアメリカ人なみの生活をしている一方、大部分の国民は今日食べるものにも事欠く貧困レベルの生活を強いられています。そういった部分を見ないで、単純にカリブの青い海辺でパイナップルサルサのトルティージャチップスをつまみながらコロナビールを飲んで楽しく過せるのなら、外国からの観光客にとっては良い所でしょう。この貧しい光景は、戦中戦後の日本とだぶります。私はもちろん小説とか写真とかで間接的に知っているだけですから本当は違うのかも知れませんが、貧しかったころの日本を描いた作品とかをみると気持ちが重くなってきます。金銭的な貧しさはしばしば心まで貧しくしてしまうようです。(勿論、貧しさに負けずに頑張っている人もいれば、金持ちでスポイルされて人の心を失ってしまう人もいます。)金持ちの外国人客が気軽に使う数ドルはきっと貧しい現地の人にしてみれば大金であったりするのでしょう。そう思うと悲しい気持ちになります。今回のハリケーンでも、貧しい人たちがもっとも重い被害にあっているようです。彼らの祖末な家は嵐で吹き飛びんでしまいました。大多数の国民が苦しんでいて一部の金持ちが豊かに暮らしているそういうひずんだ国は悲しいです。
日本でも市場主義の蔓延で一昔前の国民総中流意識というものがだんだんなくなってきていっているようです。国民の間にアメリカ流の不公平な競争原理が浸透していくと、日本もそのうちメキシコやフィリピンみたいになってしまうかもしれません。終身雇用制だった時代は、会社は有機的な全体的存在で、会社は社員とお客のものでした。今や株式会社であれば会社は株主のものらしいです。社員はお金と引き換えに労働を提供する部品に過ぎなくなり、個人はより断片化し、生活は不安定になってきています。個人の自由が増えたといえばそうなのですが、責任と経済的プレッシャーも増えてきていますから、少数の競争に勝てる人はいいですが、競争に弱い大多数の人にとってはより困難な社会です。そんな大多数の人々が幸せになれない社会というのは、私からすれば「悪い社会」です。国民の幸せ度を上げるために政治家がいるのに、残念ながら今の日本の政治家は、大多数の国民の立場に立って考えているように見えません。日本はこれからますます悪い社会となっていくのでしょうか?
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