百醜千拙草

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魂の向上、功徳を積むこと

2008-03-11 | Weblog
The Ultimate Journeyというオムニバス形式の生と死にまつわる実話を集めた本を読みました。2000 年に出版されているので、しばらく前の本です。その中では、複数の著者自身や身近かな人が死にかかったりした時の話も少なからず収載されているのですが、P.M.H. Atwaterがコントリビュートしたある臨死体験者の神とイエスとの遭遇の話が、その他の同様の体験や、そして仏教など非キリスト教でのこの世というものに対する考え方と極めて強い類似性を示していて、あらためて興味を引かれたので、書き留めておきたいと思います。話は薬剤の副作用と電気ショック療法のために致死性不整脈をおこした女性が語ったものです。彼女が「死んでいた」間、イエスと会います。彼女は不信神者で全く宗教的ではなく物質的な人でした。彼女はイエスと二三の会話をし、イエスは古風な言い回しの言葉で答えたとのことです。そこで、イエスは彼女の向かって再び生れ変わりたいかどうかと尋ねられたそうです。臨死体験者が死んでいる間に遭遇した誰かに「再び生まれ変わる、または元の体に戻る」かどうかを尋ねられるというのは、よく臨死体験者の経験することのようです。(また、臨死体験者でこの選択の機会を与えられたものは、多くの場合、そのまま天国(?)にとどまりたいという気持ちを強く持つのが通常のようです)そのイエスとの会話の間に、神が近づいてきたことを彼女は感じます。神は光であって人の形はしていません。そこで再び、地上に戻るか、ここに残るかの選択をするように訊かれ、それと同時に自分の地上でのこれまでの人生を見せられます。そして、神は彼女に「私はお前に生命という尊い贈り物を与えた。お前はその贈り物で何を成したか?」と尋ねられたそうです。彼女はこれに対してよい答えが思いつかず、自分はまだ若いのでよく分からないというようなことを答えた処、生き返ったということです。「生命や肉体が(神からの)贈り物である」という考えは、神やそれに準ずるものとの遭遇した場合によく感ぜられるもののようです。そして、このエピソードではもう一つ興味深いことをこの女性は神から聞いています。つまり、この世に生まれる前に、私たちは、時間や空間というものが本当に存在すると思い込むように指示されるのです。そのことによって、私たちはこの世の生まれる事ができて、自らを向上させることが可能になるのだそうです。時間や空間が本物であると思い込めない者は生まれてくる事ができないということらしいです。この世が魂の向上のための「修行場」であるという考えは、仏教や他の宗教にも見られます。時間や空間が私たちが感じているようには本当は存在していないというのも、仏教や量子物理学のパラダイムと一致します。この無神論者の臨死体験者の話を読んで、私は仏教やその他の宗教が示すところのこの世の中と生命の見方と、彼女が「死んでいる」間に、神から直接教えられた事が驚くほど一致していることにあらためて興味を引かれたのでした。
 生命は贈り物であり、私たちがこの世の中で不自由な生を生きる目的は魂を向上させることである、という考え方は本当なのだろうと思います。神がなぜ私たちの魂を作ったのか、なぜ私たちは向上しなければならないのかについては、私ははっきりした答えを知りません。何かの実験なのかも知れません。また「魂が向上する」とはどういうことなのかも曖昧です。しかし、魂の向上については、おそらく釈迦が悟りを得るに至った体験と極めて近いものなのであろうと想像できます。いわゆる「功徳を積む」ということが魂を向上させるということなのであろうと私は思います。それでは功徳を積むとはどういうことでしょうか。社会活動を行う上での儒教的価値観、道徳を身につけるというようなことではないであろうとは考えられます。例えば、親孝行をしたり、困っている人を助けたりするようなことは尊い行いで、大切なことではあろうと思いますが、そうした行いをすることそのものと魂の向上とは直接関係はなさそうです。むしろこれらの行いは功徳を積んだことによって自然と現れる慈悲の結果に過ぎないのであろうと思います。
功徳を積むということについては、達磨(ダルマ)と武帝の会話の記録が残されています。

梁の武帝、「余は、寺を造営し、僧を供養し、施しをなした。功徳は如何ほどか」
達磨、「功徳はない。それは福をおさめただけである。功徳は報身に関わっている。福徳とは関係がない」

菩提達磨はインドから中国へ仏法をもたらした中国での宗教の祖です。よく禅問答に見られる「祖師西来の意は何か」、つまり達磨が西の国のインドから中国へやってきた意味とは何かという問いは、「仏法とは何か」という問いと同意です。達磨は、それまで儒教とか礼とかいった社会制度しかなかった中国に初めてもたらされた宗教、新しい教えそのものであったのでした。武帝が達磨の答えを理解できなかったのも無理ありません。

もし、功徳を積むことが魂の向上に至るのであれば、六祖壇経で六祖慧能が次のように言ったことが参考になると思います。達磨から数えて六代目の慧能は、いわばインドからの借り物であった宗教を初めて中国の宗教にした人です。

「自己の本性を悟ることこそ功であり、すべてをひとしく見てゆけるのが徳である。一念一念に澱(よど)むことなく、常に本来の自己の真性に目ざめていて、真実で勝れた働きをするのが功徳というものだ。外に対しては折り目正しくあるのが功であり、内にあってはおのれを謙抑するのが徳である。自己の真性が一切の存在を打ち出して行くのが功であり、心の本体に執われの思いがないのが徳である。自己の真性を離れぬのが功であり、その真性が物に働いて執われることのないのが徳である。こういう功徳をもった法身が得たいなら、ただこのように行動することこそ、まことの功徳である」

釈迦は、四諦の中で悟りに至る方法として、正見、正思、正惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定、の八正道を示しています。これが自然とできる様に努力することが魂の向上を目指すということであろうと思います。しかし、言うは易し、行うは難しです。
コメント
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