百醜千拙草

何とかやっています

故郷小考

2008-06-24 | Weblog
魯迅の「故郷」という作品は中学の国語の教科書で読んだのですが、当時その作品にとても感動したことを覚えています。先日、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)にあるのを見つけて、何十年ぶりに読み返してみて、なお、この作品の良さをあらためて感じました。私の場合、子供の頃読んで感動したものは、大人になって読みかえすとつまらないと思うことが殆どなので、これは珍しいことです。大人と子供の感性は随分違いますから。この小品は、故郷を離れて出世した主人公(魯迅自身)が故郷の家を引き払うために帰郷するというだけの話なのですが、その風景画を見るかのような淡々とした文章(おそらく原文は中国語でしょうから翻訳者の苦心もあるのでしょう)から滲み出す情感は独特の香りがあります。この作品はおそらく最後の一行のために、数々の魯迅の作品の中でもとりわけ有名なのだと思います。そこには希望について次にように述べてあります。

希望とはあるとも言えぬし、無いとも言えない。これはちょうど、地上の道のようなもので、元来地上に道は無いが、歩く人が多くなれば其処が道になるのだ。

この一見、本筋から離れたようなやや唐突な結びの一文での魯迅の真意は何だったのか、私はよくわかりません。この作品は中国のプロレタリア文学であると位置づけもあるようで、庶民がつつましい生活の中で希望にすがって生きている様子をもって、支配者層に対しての抗議を示しているのだと考える人もあるようです。しかし、私には、この最後の文は、故郷から永遠に離れていく自分が、自分や故郷の人の人生ををしみじみと振り返って出た素直な言葉なのだと思います。故郷の恵まれない昔の知り合いを思い浮かべ、彼らがどのような道をたどって今日まで生きてきて、今後どのように生きていくのか、その思いがふとこういう表現になっただけなのではないかと私は思います。希望について述べたというよりも、希望や道に示されるように時間の流れの中で現在から少し解離して存在するものの不変さと無常に満ちた現実そのものについての言葉なのではないかと思います。その思惑はどうあれ、なかなか含蓄の深いこの一文は、この小説の結びとして極めて有効に働いていると思います。希望や道に限らず、世の中のものはそもそも有るともないとも言えると思います。無常の世の中だからこそ、はかないもの一つ一つに心を向けるとも言えます。自分の人生のこれからを思ってみる時、限りある時間をどのような道をとって進めばよいのかと焦りを感じることは誰でもあるでしょう。その時に、道というものはそもそもなく、振り返ってみてはじめて、通ってきた所が道と呼ばれるに過ぎないということを思い起こすことは有用であろうと思います。逆に希望とは将来へ向けての暫定的な方向性であって、どこにもその方向へ導く道などはない。歩き続けることそのものによって方向性は見えてくるが、立ち止まればそれは消えてしまう。希望とは過去にのみある「道」を将来から仮に眺めてみた場合の仮想図であると言えるかも知れません。高村光太郎も、道程の中で、「僕の前に道はない、僕の後に道はできる」と同様のことを言っています。

故郷という言葉を生まれ育った所という地理的な意味だけで捕える人はいないでしょう。故郷はむしろ時間的概念であろうと思います。故郷を懐かしむ人は、故郷とは過去にしか存在しないということを知っているはずです。だから故郷とは出発点であって、終着点にはならないものだと思います。未だに存在しない道は、ただ前を向いて歩く事によって作り出されます。それを振り返って眺めるとき、その出発点として故郷が、ある種の完全性を備えて彼方に見えます。 「人はどこから来て、どこへ去るのか」この哲学上、宗教上の大問題は、過ぎ行く日常の一片一片の中に見え隠れしています。魯迅のこの作品でもこのことが感じ取られます。人は故郷という過去からやってきて希望と言う将来を見ながら現在を歩く存在だということなのかも知れません。「故郷は遠きにありて思うもの、よしやうらぶれて異土の乞食となるとても、帰る所にあるまじや」、それでは人はどこへ帰っていくのでしょうか。
コメント
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