週末に溜まっていた論文とグラントのレビューをしました。そのうちの一つは日本のグループからの大変出来のよいもので、久しぶりにいい気分になりました。N紙が最近始めたオンラインジャーナルに投稿されたものですが、もっと上のランクの雑誌に載るべきだろうと思いました。日本の機関からの投稿は同じ内容でもアメリカの機関に比べて、雑誌レベルが二ランクは落ちるといいますから、まだまだ偏見があるのでしょう。そう言えば、この一、二年で中国からの投稿をレビューする機会が随分増えました。総じてレベルはまだまだ低いです。ただ、一流紙に載るような仕事も中国からどんどん出ていますから、中国が日本レベルになるのは時間の問題なのではないかなと思います。今回の週末の仕事に限って言えば、最高得点は日本からの論文、続いてフランス、中国からの当落微妙な論文、最低点はイギリスからのグラント申請でした。私はイギリスの科学には尊敬をもっていたのですけど、これまでやったレビューでは私の分野ではイギリスからのグラントや論文には当たりはありません。ヨーロッパで研究レベルが高いと思うのはベルギーです。感覚的にはドイツやフランスよりレベルが高いような気がします。あと意外なところでスペイン。スペイン政府が最近、科学研究に力を入れているからでしょうか。研究レベルと研究費は比例しますし。
論文で雑誌のレベルが下がるのは英語の問題もあると思います。科学論文の英語は高校生英語のレベルで十分なのですけど、それでも必要十分な内容をなるべく少ない文字数で論理の流れに沿って、自然な言葉遣いで書くというのは、外国人にも英語圏の人にも難しいようです。わかりにくい英語だと、それだけでレビューする気が失せますから、通るものも通らなくなります。スペル間違いや文法間違いは論外です。そのようなケアレスミスをするような著者の研究ならデータも怪しいだろうと想像してしまうのが人間ですから。
英語に関して、最近、岩下おじさんのブログの日本人の外国語について書かれているエントリー、「外国語ができるって?へ~見上げたもんだカラスのションベン」、内田樹の研究室での関連したテーマのエントリー「言語を学ぶことについて」を読んで、補足的に私も書いてみようと思います。
私も以前、社内公用語を英語にした日本の会社の話を聞いたときに、「何と恥知らずなことよ」と批判した覚えがあります。恥知らず、というのは、これは、売国政治家と同じ、国の宝を外国に売りわたすに等しいことだと私が思うからです。社内とは言え、日本語で仕事をするのをやめろ、というのです。
ヨハネは世界の始めにあったのはロゴスだと言いました。ならば、日本のはじめは日本語に間違いありません。日本語がなかったら日本という国はありません。私はそう思っております。文部省はその日本語も満足にしゃべれないような年端もいかない小さな子供のころから英語を教えようとしているようですが、正気ですかね。もしも、その目的が英語を使える勤勉な日本人奴隷を国際企業に供給することなら、英語教育は立派な売国計画と言えるでしょう。
私は、論文やレビューやグラントやメールを英語で書く必要があるので、英語は毎日使います。しかし、これは本来の言語の目的、意思疎通のための道具として使っているだけのことです。内田樹の研究室のエントリーでは、なぜ日本人の英語能力が上がらないのかという理由について、利益誘導型の教育が悪いのだという教育方法の問題点が指摘されています。私は、仕事用の英語は仕事で必要になったから覚えたので、そうでなければ覚えなかっただろうと思います。私の場合は立派に利益誘導が効きました。文法的に誤った英語、読みにくい英語、意味がはっきり伝わらない英語、そういう英語を使うと、論文もグラントも通らず、死活問題になるので、英語の技術が上がったと思います。対して、英語が仕事で必須でない場合に、日本人が英語をしゃべれなくても聞き取れなくても生きて行けるというのは素晴らしいことです。日本語だけで生活できる社会なのですから(今後、日本での国内の職が減って行けば、これは変って行くかもしれません)。他の国々の人は、経済の問題や安全の問題で国を追われ、見知らぬ外国で覚えたくもないその国の言葉を必要に駆られて覚え、それで安い賃金の仕事に就いている大勢の人々がいます。日本でもかつてハワイ、カリフォルニア、南米などに移民した人々はそうでした。しかし、現在、移民せざるを得ない日本人は余りいないでしょう。なのにどうして英語を学ばなければならないのでしょうか。そのうち、日本人は国内では生きて行けなくなるから生き残るために準備せよ、ということでしょうか。文部省が「グローバルな人材」がどうとか言うのは、実は国際企業で使いやすいチープで従順で使い回しが効く労働力、という言う意味ではないのですかね。
ところで、持たざる二流のアメリカ人が日本人や他の外国人を見下すほとんど唯一の理由は「英語が自分ほどうまくない、あるいは人種が違う」です。それだけが彼らの自尊心の最後の拠り所となっています。(もちろん、教育があって努力の意味をしっている成功しているアメリカ人は、外国人を英語ができないとか人種が違うからという理由で見下したりしませんが)「英語が十分に喋れない」からお前たちは下層階級である、という劣等意識を植え付けるのに言語は大変有用です。戦争に勝って植民地にした場所で最初にすることは、言語教育です。戦時中に日本軍がフィリピンや植民地としたところで、現地人に日本語を教えたように、敗戦後の日本は英語が義務的に教え込まれます。言語を使って植民地の人間を支配し利用しやすいようにするためです。かつてのヨーロッパ帝国主義時代の植民地では、宗主国の言葉がその国の言葉となっています。カリブやアフリカのフレンチクレオール、ブラジルのポルトガル語やその他南米のスペイン語。言語は人間を支配する有力なツールです。それはカネと同じかそれ以上のパワーがあると思います。
日本で英語が義務教育であるのは、戦争に負けたからに間違いありません。それは仕方ありません。しかし、日本企業が日本国内の会社で仕事用の言語を英語にするというバカげた発想は、これはもう、マゾとかではなくて、すっかり洗脳されてしまったか、あるいは確信犯でしょう。
これからの世界は、国というエンティティーが仮に崩れ去っても、国際企業というものは残っていき、カネを使った世界支配を資本家が進めて行くことになります。彼ら支配者には国籍はどうでも良いのです。彼らにとっては、日本という国が放射能にまみれようが、日本語が消え去ろうが、日本の美しい文化が失われようが、知ったことかで、目先のカネの方が百倍も大切なのでしょう。そんな国際企業にとって使いやすい人材とは、かつての社畜とよばれた会社には絶対服従の従順な日本人でかつ英語ができる使い勝手のよい労働者でしょう。すなわち、文部省が英語教育を推進して幼稚園から英語を学ばせると言っているのは、私にとっては国際企業オーナーたる支配者層に使い勝手の良い奴隷を準備しようと言っているに等しいです。ゆえに社内公用語を英語にするようなことは露骨な売国行為であると私は思います。言葉を意思疎通の道具として使うのではなく、支配の道具としての言葉によって「使われてる」のが日本人ではないのか、と思わずにおれません。
正論を言えば、英語より日本語です。日本語がしっかりできれば英語を道具として学ぶことは簡単だと私は思います。正直、道具として英語を学ぶのであれば、英語は義務教育にする必要は全くないのです。英語が義務教育になっているのは70年近く前に戦争に負けて以来、日本がずっとアメリカの植民地だからでしょう。宗主国に対して日本人に劣等意識を持たせるのに英語は都合がよいのです。
論文で雑誌のレベルが下がるのは英語の問題もあると思います。科学論文の英語は高校生英語のレベルで十分なのですけど、それでも必要十分な内容をなるべく少ない文字数で論理の流れに沿って、自然な言葉遣いで書くというのは、外国人にも英語圏の人にも難しいようです。わかりにくい英語だと、それだけでレビューする気が失せますから、通るものも通らなくなります。スペル間違いや文法間違いは論外です。そのようなケアレスミスをするような著者の研究ならデータも怪しいだろうと想像してしまうのが人間ですから。
英語に関して、最近、岩下おじさんのブログの日本人の外国語について書かれているエントリー、「外国語ができるって?へ~見上げたもんだカラスのションベン」、内田樹の研究室での関連したテーマのエントリー「言語を学ぶことについて」を読んで、補足的に私も書いてみようと思います。
私も以前、社内公用語を英語にした日本の会社の話を聞いたときに、「何と恥知らずなことよ」と批判した覚えがあります。恥知らず、というのは、これは、売国政治家と同じ、国の宝を外国に売りわたすに等しいことだと私が思うからです。社内とは言え、日本語で仕事をするのをやめろ、というのです。
ヨハネは世界の始めにあったのはロゴスだと言いました。ならば、日本のはじめは日本語に間違いありません。日本語がなかったら日本という国はありません。私はそう思っております。文部省はその日本語も満足にしゃべれないような年端もいかない小さな子供のころから英語を教えようとしているようですが、正気ですかね。もしも、その目的が英語を使える勤勉な日本人奴隷を国際企業に供給することなら、英語教育は立派な売国計画と言えるでしょう。
私は、論文やレビューやグラントやメールを英語で書く必要があるので、英語は毎日使います。しかし、これは本来の言語の目的、意思疎通のための道具として使っているだけのことです。内田樹の研究室のエントリーでは、なぜ日本人の英語能力が上がらないのかという理由について、利益誘導型の教育が悪いのだという教育方法の問題点が指摘されています。私は、仕事用の英語は仕事で必要になったから覚えたので、そうでなければ覚えなかっただろうと思います。私の場合は立派に利益誘導が効きました。文法的に誤った英語、読みにくい英語、意味がはっきり伝わらない英語、そういう英語を使うと、論文もグラントも通らず、死活問題になるので、英語の技術が上がったと思います。対して、英語が仕事で必須でない場合に、日本人が英語をしゃべれなくても聞き取れなくても生きて行けるというのは素晴らしいことです。日本語だけで生活できる社会なのですから(今後、日本での国内の職が減って行けば、これは変って行くかもしれません)。他の国々の人は、経済の問題や安全の問題で国を追われ、見知らぬ外国で覚えたくもないその国の言葉を必要に駆られて覚え、それで安い賃金の仕事に就いている大勢の人々がいます。日本でもかつてハワイ、カリフォルニア、南米などに移民した人々はそうでした。しかし、現在、移民せざるを得ない日本人は余りいないでしょう。なのにどうして英語を学ばなければならないのでしょうか。そのうち、日本人は国内では生きて行けなくなるから生き残るために準備せよ、ということでしょうか。文部省が「グローバルな人材」がどうとか言うのは、実は国際企業で使いやすいチープで従順で使い回しが効く労働力、という言う意味ではないのですかね。
ところで、持たざる二流のアメリカ人が日本人や他の外国人を見下すほとんど唯一の理由は「英語が自分ほどうまくない、あるいは人種が違う」です。それだけが彼らの自尊心の最後の拠り所となっています。(もちろん、教育があって努力の意味をしっている成功しているアメリカ人は、外国人を英語ができないとか人種が違うからという理由で見下したりしませんが)「英語が十分に喋れない」からお前たちは下層階級である、という劣等意識を植え付けるのに言語は大変有用です。戦争に勝って植民地にした場所で最初にすることは、言語教育です。戦時中に日本軍がフィリピンや植民地としたところで、現地人に日本語を教えたように、敗戦後の日本は英語が義務的に教え込まれます。言語を使って植民地の人間を支配し利用しやすいようにするためです。かつてのヨーロッパ帝国主義時代の植民地では、宗主国の言葉がその国の言葉となっています。カリブやアフリカのフレンチクレオール、ブラジルのポルトガル語やその他南米のスペイン語。言語は人間を支配する有力なツールです。それはカネと同じかそれ以上のパワーがあると思います。
日本で英語が義務教育であるのは、戦争に負けたからに間違いありません。それは仕方ありません。しかし、日本企業が日本国内の会社で仕事用の言語を英語にするというバカげた発想は、これはもう、マゾとかではなくて、すっかり洗脳されてしまったか、あるいは確信犯でしょう。
これからの世界は、国というエンティティーが仮に崩れ去っても、国際企業というものは残っていき、カネを使った世界支配を資本家が進めて行くことになります。彼ら支配者には国籍はどうでも良いのです。彼らにとっては、日本という国が放射能にまみれようが、日本語が消え去ろうが、日本の美しい文化が失われようが、知ったことかで、目先のカネの方が百倍も大切なのでしょう。そんな国際企業にとって使いやすい人材とは、かつての社畜とよばれた会社には絶対服従の従順な日本人でかつ英語ができる使い勝手のよい労働者でしょう。すなわち、文部省が英語教育を推進して幼稚園から英語を学ばせると言っているのは、私にとっては国際企業オーナーたる支配者層に使い勝手の良い奴隷を準備しようと言っているに等しいです。ゆえに社内公用語を英語にするようなことは露骨な売国行為であると私は思います。言葉を意思疎通の道具として使うのではなく、支配の道具としての言葉によって「使われてる」のが日本人ではないのか、と思わずにおれません。
正論を言えば、英語より日本語です。日本語がしっかりできれば英語を道具として学ぶことは簡単だと私は思います。正直、道具として英語を学ぶのであれば、英語は義務教育にする必要は全くないのです。英語が義務教育になっているのは70年近く前に戦争に負けて以来、日本がずっとアメリカの植民地だからでしょう。宗主国に対して日本人に劣等意識を持たせるのに英語は都合がよいのです。