百醜千拙草

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コロナと資本主義

2020-05-12 | Weblog
コロナによるロックダウンや活動の抑制で、この一ヶ月ほどで世界の環境に驚くほど急激な改善が見られています。フランスでは空気の汚染度が改善されて、養蜂業は最高の蜂蜜の収穫、いつも汚濁が激しいインドのガンジス川は川底が見えるほど澄んでいます。地球は驚くべき回復力を持っているのだなあと感心する一方で、人間の活動が環境に及ぼす悪影響の大きさをあらためて実感しました。

地球レベルでは、良い傾向です。しかし、一方で、人間の日常レベルでみると、やっかいなことになりつつあります。急激に失業率が上がり、かなりの規模の有名小売業者が破産申請を出しはじめました。中小零細の客相手の商売はいうまでもありません。つまり、打撃を受けているのは、人との物理的なやりとりで商売する第三次産業です。消費者にとっては、停止すれば直ちに人間の生命に影響するというわけではない業種ですが、そこで働く人にとっては生存問題です。

そもそも、第三次産業がなぜここまで大きくなったかと思えば、資本主義にいきつくと思います。つまり、資本主義によって多くの被雇用者(労働者)が生み出され、そして第一次、第二次産業の効率化と資本家の利潤の追求により彼らが順次より安い外国の労働者や機械によって置き換えられた結果、労働力は第三次産業に流れ、都市が巨大化したのではないかと思います。16世期からのイギリスでの「囲い込み」では、地主(資本家)が金もうけのために耕作地を牧場に変えようとしたために小作人は農民としての職を奪われ、賃金労働者となりました。そして産業革命がおこり、資本主義は加速しました。巨大化した都市に住む賃金労働者は、土地も資産も助け合う共同体もなければ、カネの流れが止まったらそれまでです。

われわれは、そういう社会がどんどんと極端になっていく中を生きてきました。都市に生きる人はカネなしに生きていけません。都市生活者が増えるにつれ、そこそこの企業にやとわれてそこそこの給料をもらうサラリーマンになるのが普通であると考える人が多数を占めるような社会になりました。高度成長期で、日本が社会主義的資本主義(または日本型社会主義、日本型資本主義)と呼ばれたころは、会社が家なら社員は家族で会社は家族の面倒を一生見るのが当然という意識もありましたが、そんな時代はとっくの昔に過ぎ去り、今や、カネのためには社員の生活など二の次、会社は株主のカネ儲け装置で社員は使い捨ての道具にしかすぎない、まさに本来の西洋型資本主義(すなわちカネ第一主義)の非人間性に直にさらされる社会となりました。

マルクスが資本主義の非人間性の側面を批判し、搾取された労働者の反逆によって終焉を迎えると予言したのが150年前、その後、国家による労働者権利の保護や、労働者ではなくイデオロギーで主導された社会主義国家の失敗などによって、資本主義はマルクスの予想に反して現在に至っています。その間、資本主義はグローバル化し、マルクスの時代にはなかった管理通貨制にのよる現代の金融システムと融合し、桁違いのスピードで肥大化し、かずかずの歪みを生み出し、いよいよ限界に近づいてきたと感じます。

このコロナ危機により世界的に失業者が急激に増加しました。生存がカネに依存する社会において、貧しさは人間性を損ないます。貧すれば鈍する、余裕がなくなると淺ましくなるもので、カネのためには人も騙せば嘘もつく。挙句に人を殺したり自殺したりまでします。急激な貧困化が進む日本がもはや先進国とはいえないような有り体をさらしているのは、この余裕のない社会ゆえではないでしょうか。
ついでに、最近の小田嶋さんのエッセイの一節を、ついでに引いておきます。

--  私にも経験のあることだが、貧乏は人間のメンタルを削る。このことは何度強調しても足りない。最低限の貯金を持っていない人間は、最低限の良心を持ちこたえることができなくなる。さらに、ある程度以上の借金を抱えた人間は、カネのことしか考えられなくなる。つまり、貧困に陥った人間は、事実上思考力を失う。 -- 日経ビジネス 「ひとりひとり」は羊の群れではない

敗戦のあと、貧しかった焼け野原だった日本は、敗戦の屈辱をバネに立ち直り、奇跡的な成長期に入り、若手労働者は金の卵と大切にされた時代、栄養ドリンクを飲んで24時間カネ儲けに邁進し、身の程を忘れてバブルで余ったのカネで外国資産を買いまくった浮かれた時代を経て、この30年、衰退の一途を辿り、ついに先進国でダントツの低成長率をマークし続けて、ここまで落ちてきました。上がれば下がる、下がれば上がるのが自然の理ですが、株式市場と同じでいつ潮目が変わるのかは予測困難です。

このコロナ危機による経済活動の急激な抑制によって、西洋型資本主義そのものが行き着くところまできつつあるのではないかと感じる人は多いのではないでしょうか。現在のグローバル資本主義は、焼畑農業のようなもので、労働力の安いところを目指して移動していきます。そうして豊かになって賃金が上がるとそこを見捨てて、また安いところを目指す。見捨てられた土地から雇用は失われ、没落が始まります。しかし、ものには限界がありますから、永久に焼畑農業を続けるわけには行きません。

それで、そもそも限界に達しつつある異常に肥大化した資本主義、自由主義ではありますが、今回のコロナ危機がその終焉へと背中を押す形になるのではないかと想像しています。ソビエト連邦やかつての社会主義国家と異なり、今回はその革命の原動力は、仕事を失った一般労働者となるでしょう。ならば、腐敗した政治システムも本来の民主主義にそって刷新されるかも知れません。そして、権力は分散化され地方自治は強化され、政治には住民の意志が反映されるようになり、住民の生活はきめ細かくサポートされるようになるかも知れません。(そうなって欲しいと思います)

そうなれば、国家的危機で大勢の国民が生活に困っているのに、いつまでたっても、何の補償もされず、不良品のマスクでさえ届かず、政府与党のトップは、お伽噺の世界にいて現状をロクに把握もしておらず、やってるフリとできない言い訳ばかりを並べてて、時間を無為に費やすくせに、税金だけはしっかり取り立てて私物化する、という非人間的な社会ではなくなるかも知れません。
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