百醜千拙草

何とかやっています

ホワイトハウスのビール(2)

2009-08-04 | Weblog
先日、黒人ハーバード教授をケンブリッジ警察が感情的になって不当に逮捕したため、人種問題の含みを受けて、全国的な議論となった事件について書きました。この件に関して、オバマが警察の批判をして、警察の反感を買ったため、オバマは事態の収拾を図るため、当事者のゲイツ教授とクローリー巡査をホワイトハウスに招き、副大統領のバイデンも含めた4人で、ローズガーデンと呼ばれる一角のピクニックテーブルで、先の木曜の夕方、ビールを飲みました。この会は社会の注目を浴びて、ビールサミットと世間では呼ばれたようですが、オバマは、正式な議題はなし、一日の終わりに男同士でビールを飲みながら話しをする気軽な会だ、と説明し、報道陣をほぼシャットアウトした状態でビールの会は行われました。事態収拾のための演出ですから、ここで、人種問題や警察の体質について、議論を戦わそうというわけではなく、世の中には色んな人々がいるから、お互いに、尊重し合い、話を聞いて理解しようとする「思いやりの態度」が必要だということを示すのが目的なわけです。お互いの意見が一致しなくても、仲良くやっていけることは、他民族社会では重要なことです。彼らも「意見が一致しない」という点においては意見が一致したと述べました。意見が違っても、お互いを尊重することは大切です。オバマはこの事件に関する一連の世間の反応を見て、世間がこの事件にこれほど興味を持っているということに興味を引かれると言いました。
 このビールの会で、オバマはBud light、ゲイツ教授はSamuel Adams light、クローリー巡査はBlue Moon、バイデンはノンアルコールビールを飲んだとのことです。Samuel Adamsはもとはゲイツ教授の地元、ボストンの地ビールですが、人気を博して、全国的に飲まれるようになりました。風味豊なコクのあるビールです。Blue Moonはおそらく、クアーズが作っているアメリカ産のベルギー風ビールで、フルーティーな風味が人気の濾過していない生ビールのことだと思います。この明るい色の濁ったビールは、オレンジの皮を入れて風味を足して飲むのが「通」のようですが、(コロナビールにライムを入れるようなものですね。もっともメキシコ人は何にでもライムジュースを足しますが)そのまま飲んでも、爽やかでおいしい(クアーズが親会社にしては)よいビールだと思います。一方、オバマの飲んだBud lightは、これ以上、まずいビールは余りないだろうと思われるほど、まずいと思います。もうちょっとお金を足せば、アメリカにはおいしいビールがいっぱいあるのに、なぜバドワイザーとかミラーとかクアーズとかのまずいビールをアメリカ人は飲み続けるのか、私には理解できません。私はアルコールを去年から止めていますし、長らくバドワイザーを飲んでいませんので、ひょっとしたら最近、多少おいしくなったという可能性が全く無いとは言えません。オバマも本当はおいしいビールが飲みたいと思っていても、庶民の立場に立っていることをアピールするために、あえて、バドワイザーを飲んでいるのかも知れません。そうなら、きっと、車もGMやひょっとしたらフォードとかを運転しているに違いありません。ここで、事情通の友人は、バドワイザーは大統領選で戦ったジョンマッケーンの奥さんの実家がオーナーなので、オバマはマッケーンと共和党に気を使っているのだ、という説を出しました。大統領ともなれば、ビールひとつ飲むにしても、いろいろ、気遣いが大変そうです。
 ゲイツ教授とクローリー巡査は、「今度は一緒に昼飯でも」という友好的な話に発展したそうですが、もう一つの後日談として、この騒動の発端となった、ゲイツ教授宅のそばに住んでいて、警察に通報したその隣人に、ゲイツ教授が、花とcardを贈ったということを聞きました。自分を騒動に巻き込んだこのおっちょこちょいの隣人に対して「感謝のしるし」を贈ったこという行為の意図は興味深いです。嫌な出来事は、すべて、学びの機会であります。そんな嫌な出来事から、何か有益なことを学ばない限り、同じような嫌な出来事が繰り返し起こることになります。ゲイツ氏は、頭が冷えてから、自分の行いを客観的に見直して、自分の中にある誤りに気がついたのでしょう。その誤りを気付かせてくれた事件の発端者に、謙虚に感謝の念を示したのであろう、と私は想像します。他人の誤りを見つけて、糾弾するのは易しく、自分の誤りに気がついて、改めるのは難しいことです。
 中国禅仏教の祖、六祖慧能が、その弟子、神会との問答の中で「先生はものが見えますか」と問われて、「見えもし、見えもせぬ」と答えたというエピソードを思い出します。これを説明して「見えるというのは、自分の過ちをいつも見つめているという意味であり、見えないというのは、他人の過ちを見ないという意味である」と言いました。逮捕当時は、ゲイツ教授とケンブリッジ警察は、感情的になって、相手の過ちしか目に入っていなかった、ということなのだと思います。その後のニュースからゲイツ教授は自らの過ちを自覚して糧としようとしていることが読み取れますが、ケンブリッジ警察側の様子は分かりません。ものわかりの早さには、個人差がありますし、まして警察官は権力組織にいるわけで、自らの過ちに気付いて改めるのは易しいことではないということは想像できますが、自分の誤りに気がついてそれを直そうとするのは、警察官であるからこそ、余計に必要な態度であろうと思います。
コメント
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