先週の大西つねきさんの記者会見をみて、ちょっと思うところを書いておきたいと思います。
これは、れいわ新撰組の大西さんが自身のYoutubeで、これからの高齢化社会で人的リソースが不足する中で、まちがいなく大問題となる介護医療問題を論じた中での話です。どう若い人々の人的リソースと高齢者医療介護ニーズのインバランスに対処すべきか、という話で、「高齢者の人からいってもらうのが自然」、「生命の選別は必要になり、それは政治がやるしかない」というような趣旨の発言をしたことが、炎上し、紆余曲折あって、れいわを除籍となったという事件です。
この事件がツイッターで流れてきた時、私も問題の動画を見て、「生命の選別」という言葉をはっきりと言ってしまったので、これが一人歩きするのは止むを得ないだろうと思いました。もちろん大西さんの真意は優生思想でもなんでもなく、圧倒的にニーズに見合わない限りあるリソースをどう配分するのか、という政治の話なのですが、言葉遣いが荒っぽかった。
そして、除籍後の大西さんの会見が先週末に行われ、たぶんそれに反応してツイートが流れてきました。例えば、池田さんの次のようなツイートがあり、私は珍しくreplyのツイートをしました。
大西つねき、ダメだなコレは。存在するものは価値とは関係ないんだよ。全ての人間には生きる価値も無価値もありゃしねえよ。生きているという事実があるだけだ。それが全てだ。価値は生きている本人が考えりゃいいんであって、他人がごちゃごちゃ言うのは余計なお世話だ。
— 池田清彦 (@IkedaKiyohiko) July 17, 2020
しかし、これは池田先生の誤解だと思います。大西さんは「生命の選別」という言葉は使ったものの、「生命の価値」については一言も発言していないのです。「選別するということは価値にそって選別するに違いない」という思い込みがこのツイートの原因であろうと思います。スレッドを見ると私と同様にこの池田先生のツイートに反応した人もかなり多く、まさに「言葉が一人歩き」して収集がつかなくなった状況だな、と感じました。大西さんは「高齢者は価値が低いとか、障害者に価値が低い」とかいう話は一切しておらず、それどころか、価値というのは個人が判断するものだという趣旨の発言さえしています。つまり、池田先生の主張と同じです。
いずれにしても、一人歩きするような挑発的な言葉を十分な説明もなく使い、誤解を招いた大西さんに責任の一端があるのは間違いないです。しかし、その問いかけの本質はしごく真っ当なことで、この問題はみんなが真剣に考えないといけないことです。
会見での記者の質問をみていると、半分の記者は問題を理解しておらず、一人歩きした言葉の誤解の上でピントはずれの質問をしていましたが、数人の記者はコトの本質を理解して、非常によい質問をしていました。(残念なことに、大西さんのほうがこの記者のよい質問を十分に生かせずに真意をわかりやすく伝える機会を逸したように思えました)。質問では、楢山節考の話をきっかけにリソース配分の話に誘導しようとした記者の質問に、「楢山節考は読んでいない」と自ら話の腰をおり、助け舟の別の質問にも端的な回答をしなかったのが残念です。その質問は楢山節考に近いシチュエーションの喩え話で、「重症コロナ患者が二人いて呼吸器が必要だが、呼吸器は一台しかないとき、どうするか」という質問でした。
そもそも政治の本質とは、集めた税金の使い道を決めることであり、リソース配分の優先順位を決めることです。近い将来、深刻化する高齢者介護、医療の問題に直面して、限りある医療従事者、介護従事者という人的リソースが圧倒的に不足することは目に見えているのです。その時に限られたリソースの配分方法を責任を持って決めれるのは政治しかない、という主張だと思います。いま、日本は政治がまったく機能不全に陥っています。つまり、こうした重い問題を政治家は取り上げたくないので、放置し、結果、現場に全ての責任をおしつけ、自己責任だと、知らぬ顔をしているのが現状です。
この30年、日本は落ち目の一途を辿り、それは加速していき、超高齢化社会がすぐそこにやってきて、さらなる危機的状況を迎えようとしています。その時に、足りないリソースのしわ寄せを個人や民間に押しつけて、自己責任だというような無責任政府ではいけない、どうにもならない状況におかれて、困難な判断をせざる得ない場合には、政治が自らの責任においてやらなければならない、というのが大西さんの主張だと思います。
山本太郎氏も残念ながら大西さんの意図を理解しているとは思えないコメントを出しました。あるいは立場上、そう言わねばならなっかったということかも知れません。また、れいわの障害者議員、木村英子さんが自身のサイトで、大西さんの会見に先立ち、今回の件について、コメントを出しています。これを読んでみても、そもそも問題の認識が噛み合っていないのが明らかだと私は思います。木村さんは、こう書いています。
今回の件で、弱者に対する差別が明るみに出ましたが、私は、自らの掲げる理念である「共に学びあい、共に助けあい、共に互いを認めあい、共に差別をなくし、共に生きる」を実現し、「誰もが生きやすい社会」を作るために、これからも差別と向き合い続けて、政治を変えていきたいと思います。命の選別をするのが政治ではなく、命の選別をさせないことこそが、私が目指す政治です。
まず、第一に弱者に対する差別の主体は大西さんであるというような含意がありますけど、それは多分、認識違いでしょう。言葉をつくして相手の気持ちになるという点がおそらく大西さんには不足しており、それを「おごり」であるとか「差別」であると木村さんが感じたのだろうと想像します。しかし、大西さんの真意は、物理的に高齢者人口が激増して介護する若い世代が間に合わなくなる近い将来、「誰もが生きやすい社会」の実現は困難になり、どういう形であれ、「生命の選別は行われる」状況になる可能性が高い、という前提から始まっており、その場合に選別するとしたら政治が引き受けるしかない、という主張だと思います。つまり、木村さんやれいわが目指している理想の一歩先にある現実の議論をしようとしたのです。理想を語りそれを実現したいと言うのは簡単です。しかし、「生命の選別を許さない社会を目指す」と言いますけど、それを実現する具体的な方法はどうするのでしょう。厳密に考えた場合、もはや、高齢者介護医療の問題はカネで解決できるレベルではないです。れいわは消費税減税、反緊縮財政を手段と訴えていますが、結局、カネの話です。それでは、カネでどうにもならないレベルの問題を、どうやって解決する気ですか、という問いです。れいわの誰もその状況においての解決策を考えているとは思えません。
つまり、高齢少子化によって非常に厳しい未来があと10年以内に具現化する可能性が高いのですが、いわば「夢を売る」ことによって支持を集めねばならない政党である以上、「まもなく、とても厳しい時代がやってくるので、みなさん覚悟して準備してください」というようなキャンペーンはできないです。人というのは多かれ少なかれ希望を求めるもので、「れいわ」なら生命の選別のない社会になるだろう、と期待して、人は支持するわけですから。
そういう点で、いわばタブーのような話に、言葉不足のまま、大西さんは突っ込んでしまったように感じます。誤解をうむような言葉遣いに加えて、誰にも解決法をもっていない問題に触れてしまったことが、政党の構成員としては、まずかったとと思います。
また、大西さんに対する批判の一部は正当であると思います。れいわという政党としては、言葉が一人歩きしてしまった以上、いくら誤解であるとしても、大西さんを処分するしか収める手はなかったと思います。また、どうも大西さんも、例え誤解であっても、不注意な言葉づかいで人を傷つけたことを真摯に謝罪し、誤解を解くということを十分にしなかったようで、れいわのメンバーからも理解を得られなかったようなのは残念なことです。その点に関しては、ふなごさんが、大西さんにはおごりがあるのではないか、とコメントしたことは当たらずとも遠からずだと思います。聞き手の立場になって言葉を選ばす、挑発的な言葉を使った上に十分な説明を省いてしまった。それによって、自ら誤解を招き、言葉の一人歩きを許すような状況を作ってしまった、のは大西さんですし。
思うに、大西さんは、国民と同じレベルに立って彼らの感情的な支援を得る必要がある政治家よりは、社会や国のレベルで政策を考える参謀的役割が向いている人だと思います。私的には実現不可能な理想を語られるよりも、現実を見据えて理論に問題を議論する人の方が好きです。100人の困っている人を助けるリソースが50人分しかない、という状況でどうするか、理想とか根性とかで問題が奇跡的に解決するのは漫画だけです。しかし、政治家がそれを政党支持者に言ってしまっては、まずいのです。困難な中でも希望にすがって何かに期待して生きているのが人間であり、政治家は、そういう人々に寄り添って、希望をつなぐのもその仕事ですから。