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民数記にみるユダヤの心 (2)

2023-10-24 | Weblog
イスラエルのシオニスト政権が建国以来やってきたパレスティナ人迫害、そして今回やろうとしているガザのパレスティナ人殲滅作戦とでもいうような軍事行動を支えている心理の根底に、ユダヤの信仰が中心的役割を果たしているのは間違いないはずです。シオニズムは古代のイスラエルの歴史の上に立拠し、それはユダヤ教によって正当化されていると思われます。

しばらく前からぼちぼちやりだした聖書通読プロジェクトは牛の歩みですが、現在、旧約聖書の4章目の「民数記」を一応、読み終えました。旧約聖書の最初の5章、モーゼ五書、はユダヤ教の骨子をなします。民数記では、神がエリコに近いヨルダン川のほとりのモアブ平野で、モーゼを通じてイスラエルの人に命じられた掟と命令などが書かれており、日本語二段で60ページほどあります。これらの細かく煩雑な掟や命令を、普通の人間がまちがいなく実行するのは大変困難ではないかと思われ、ほとんど絶対権力を持つ神の人間に対する「弱いものいじめ」ではないかさえ感じるほどです。

このあたりから、聖書にある「神」とはどういった存在なのかということを私なりに考え始めました。随分以前にも「ヨブ記」という旧約聖書の中で最も解釈が難しいと言われる章について述べた覚えがありますが、これは、サタンと賭けをした神が、信仰厚いヨブを試すために筆舌に尽くしがたい理不尽な苦難をヨブに与えるという話です。最初に読んだ時に驚いたのは、そもそも「神」たるものが「賭け」をしたり、信仰厚い人間を「試し」たり、そのために実際に苦しめたりするものなのか、ということでしたが、今になって思えば、「全知全能」の創造主たる神というものに人間の立場から求めるイメージを私が勝手に作り上げていたからのようです。

そこで、イスラエルの神とはそもそも何なのか、私になりに考えた解釈は、前々回にも述べた通り、その神とは擬人化された「自然」のことではないかということです。気をつけていないと、弱い人間は疫病、天変地異、さまざまな自然現象に巻き込まれて簡単に死んでしまいます。そうでなくてもいずれは老いて弱って死ぬ運命です。そして、自然界は、基本的に弱肉強食、適者生存の法則によって支配されているようです。神は、人間を弱い存在、自然(神)によってその生殺与奪を握られ、困難と苦しみの中で生きていく存在として創造しました。そこに「神の愛」があるかどうかは別次元の解釈のレベルの話です。そして、モーゼはそんな弱い人間が生き延びて繁栄するためのコツを数々の命令や掟という形でイスラエルの民に語ったのだと私は解釈しました。ユダヤの神は単に母性的な慈愛に満ちた存在ではなく、聖書にもあるように「ねたむ神」であり、契約にしたがって、いつでも人間を意のままに生かし殺すことができる畏怖すべき存在であります。また、同じく前回述べたように、厳しい環境の中で、強いものが弱いものを犠牲にして生き延びることは、神の意図したことであり、それが自然の(神の)法則であるとユダヤ人は考えているのではないでしょうか。私のこの勝手な解釈が正しいとすると、ユダヤ人に共通してみられる実利主義や計算高さや民族主義的思考が腑に落ちるような気がします。

「民数記」は、タイトルが示す通り、イスラエル12部族とその構成人数などの情報が書かれており、当時のイスラエルの民の規模が窺い知れます。ここでの物語は、モーゼが奴隷となっていたイスラエル人を率いてエジプトを脱出後、シナイ山で十戒を授けられる出エジプト記でのエピソードの後、彼らが旅を続けてヨルダン川に至るまでの話で、36節からなります。聖書に書かれている数字から推測すると、当時、モーゼが率いていたイスラエル12部族の全人口は200万人程度ではないかと見積もられます。聖書には細かい具体的な数字が書かれていますが、全人口は推計されたものにすぎません。というのは、神はモーゼに次にように命じたからです。

民数記1-1.1-3
「あなた方は、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を一人一人数えて、その総数を得なさい。イスラエルのうちて、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者をあなたとアロンはその部隊にしたがって数えねばならない、、、、」

そういうわけで、聖書には「二十歳以上で戦争にでることのできる男子」の数だけが記載されているのです。つまり戦争に出ない老人、子供、女性の数は無視されています。

こうした記載から、旧約聖書の書かれた時代は、戦争に出ることができる若者の数を把握し、「戦争」に勝ち、攻められては負けないよう準備しておくことが非常に重要であったことが推測されます。敵と戦い、自分と自分の種族を守り、相手を倒して利用すること、それが、この時代の種族が生き延びるための日々の営みであり、第一の優先事項であったと考えられます。当時の砂漠の厳しい自然の中で生き残っていくために資源を手に入れるには、持っている者から奪うというのは重要な戦略の一つであったに違いないと想像するのです。また逆に力がないと奪われ、殺されるのが当然の世界であったでしょう。

民数記につづく申命記には、神の言葉として次のようにあります。

申命記1.1-.6-8
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、身をめぐらして道に進み、アモリ人の山地に行き、その近隣のすべてのところ、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海辺、カナン人の地、またはレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。見よ、私はこの地をあなた方の前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主があなた方の先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えるといわれたところである。』、、、

これが、シオニストがパレスティナの土地を略奪し入植を進めることの拠り所になっていると思われます。そして聖書には、その後、「神」の庇護の下、イスラエルの部族が、先住民を、女、子供を含めて殲滅し、その財産と土地を収奪していったかが詳述されています。

モーゼは神に代わって言います。

民数記7.2-3
(土地の略奪に際して) すなわちあなたの神、主が彼らをあなたに渡して、これを撃たせられるときは、あなたは彼らを全く滅ぼさなければならない。彼らと何の契約もしてはならない。彼らに何のあわれみも示してはならない。またかれらと婚姻をしてはならない。かれの娘をあなたのむすこにめとってはならない、、、

民数記7.6
、、、あなたがたはこのように彼らに行わなければならない。すなわち彼らの祭壇をこぼち、その石の柱を撃ち砕き、そのアシラ像を切り倒し、その刻んだ像を火で焼かねばならない。あなたはあなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで、自分の宝の民とされた。

古代イスラエルの民が生きた世界がどのようなものであったかが聖書から読み取られます。弱肉強食の現実を肯定し、強い選民思想と差別意識によって、他民族を殲滅し、砂漠の乏しい資源を奪ってわが物とすることを是とする教義によって、生き残ってきた民族がかつてのユダヤであった、と極論するのも可能でしょう。(これは、ユダヤに限りませんが)

そして、このモーゼ五書をユダヤの中心教義として成り立っている宗教国家で、極右シオニスト政権の支配下にあるのが、現在のイスラエルであると考えれば、イスラエルがパレスティナとの共存を頑なに受け入れず、ハマスを人の形をした獣とよび、パレスティナ人を殲滅しようするかのような行動を裏付けているのは、一種の狂信ではないのかと思うのです。イスラエルの民は神によって選ばれ、神が彼らに与えたパレスティナの土地に住む他の人々はイスラエルの民により滅ぼされる存在である、そのように神が創造したと彼らは心の底では信じているのかもしれません。
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