tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

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惨禍の中の「1年王」

2011年06月09日 | 日々是雑感
初版 金枝篇〈上〉 (ちくま学芸文庫)
J.B.フレイザー
筑摩書房

毎日新聞のコラム「余録」(6/8付)に、こんな話が紹介されていた。1年ごとに繰り返される政権交代劇がテーマである。同日のWeb版では、「惨禍の中の『1年王』というタイトルがついていた。短いので全文を引用する。

《その昔、コンゴの人は大祭司チトメが病死して霊力が失われると大地は死滅すると信じた。では彼が病に倒れそうになると、どうしたか。その後継者がこん棒を手にチトメの家を訪れて殺したという。フレーザーの「金枝篇」にある話である▲それによると、かつてのアフリカの部族などでは霊力の衰えた王は部族全体を危うくすると信じられた。このために白髪が生えただけで殺される王もいたという。ついには衰えが表れる前に取り換えようということになる》

《▲なんとフレーザーは1年ごとに王を殺しては次の王を立てる土地もあったと述べている。そんなことで王のなり手がいたかどうかは知らない。だが、こと現代日本では次から次に1年王が現れる。こちらはそれぞれ1年間で本当に霊力をすべて使い果たしての交代だ▲実は1年前に菅政権が発足した時も「金枝篇」にふれ、くれぐれも短期政権の轍(てつ)を踏まぬようにご忠告申し上げている。なのにというべきか、案の定というべきか。その退陣時期や後継の与野党大連立構想をめぐる政界の喧々囂々(けんけんごうごう)たる騒ぎの中で迎える1周年である》

《▲だが驚くべきは、それが1年前には予想もつかなかった大震災の惨禍のさなかの騒動という点である。国民がどうなろうと、世がどうあろうと、まるで歳時記の年中行事のように繰り返される政権交代劇だ。首相の霊力は1年もたず、後継候補はこん棒に手をかける▲何より深刻なのは、名の挙がるどの後継候補の霊力も政治に再生の息吹を与えるほど強いようには見えないことである。そう、「1年王」を繰り返すうちに日本政治の霊力が尽きかけているのだ》。

フレイザーの『金枝篇』は民俗学の名著である。ここには《未開人はしばしば彼ら自身の安全と世界の安全すらも、神人すなわち神の受肉(じゅにく)である人間の生命と緊密に関連していると信じている》《危険はまことに怖るべきものがある。なんとなれば、もし自然の進行がこの神人の生命に依存しているとすれば、徐々にやって来る彼の力の衰弱と、死による力の最終的終熄から予想される終局は、まことに思い半ばに過ぎるものがある》と記されている。

逆説の日本史〈1〉古代黎明編―封印された「倭」の謎 (小学館文庫)
井沢元彦
小学館

このような考え方は、古代中国にもあった。井沢元彦著『逆説の日本史〈1〉古代黎明編』(小学館文庫)によると《「不徳のいたすところ」という表現が今もある。主に高い地位にいる人が、謝罪する時に使われる。これを「翻訳」すれば、「今度の不始末が起こったのは私の人徳が足りなかったせいだ。そのことを深く反省しお詫びする」ということだ》《これは、実は「人間にとって最も大切なのは徳であり、徳さえ充分にあれば何事もうまくいく」という考え方なのである。こういう考え方は、どれくらい前からあったかというと、おそらく三千年、いや五千年以上も前からあった。これは古代の世界に共通する考え方なのである》。

古代中国のこのような考え方は「災異(さいい)思想」(人間の行為の善悪に応じて、自然が災害や変異をもたらすという思想)とか「天人相関説」(人間の行為が自然現象に影響を与えるという説)と呼ばれる。《平たくいえば「君主の心がけが悪いから、こんなに世の中が乱れるんだ」ということである。これは君主にとっては、相当につらい考え方だ。平成の時代には「台風も地震も、総理大臣の責任だ。早く辞めなさい」という人は、幸いにもいない。しかし、中国ではずっとそうだった。いや、四捨五入すれば、これは「中国の思想」ではない。中国に限らず、古代では、おそらく全世界にあった思想だろう》。

井沢氏は『金枝篇』や「災異思想」を引きながら、歴史学者の間では平安以降とされるわが国の「怨霊(御霊)信仰」の起源は、もっと古くに遡るとする。例えば『日本書紀』崇神天皇7年2月条に、疫病が流行し、神託により大物主神の子・大田田根子(おおたたねこ)を探し求め大物主神をお祀りしたところ天下太平を得た、とされるのも、この思想に基づくものだという。大物主は大国主と同体(同一人物)であり、大国主は国を譲り死を賜った(怨念を抱いて死んだ)。その怨霊を大田田根子によって鎮めたというのが井沢説である。これは梅原猛氏の『隠された十字架』(法隆寺は聖徳太子の怨霊を鎮魂する目的で建てられた)にも通じる考え方である。

菅政権のゴタゴタの話が、私がいま勉強している古代史の方向にワープしてしまった。井沢氏は「軽視され続ける日本の『神話』」「怨霊信仰は古代から存在した」「日本史は怨霊の歴史である」として、大国主や卑弥呼の謎を解き明かす。詳しくは同書に譲るが、怨霊、呪術、言霊、和の精神などをキーワードに日本史の空白部分に迫る井沢氏の試みには、全く興味が尽きない。
コメント (2)
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