tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

鴨の宮 鴨らーめんが最優秀賞!(葛城の峯G級グルメコンテスト2013)

2013年12月02日 | 奈良にこだわる
この日曜日(12/1)、「2013 葛城の峯G級グルメコンテスト」が御所市の葛城公園で開催された。最優秀賞は、地元産の合鴨(倭鴨)を使った「鴨の宮 鴨らーめん」だった! 産経新聞奈良版(12/2付)《最優秀賞に「鴨の宮 鴨らーめん」》によると、
※トップ写真は、産経新聞より拝借

御所市産の食材を使ったアイデア料理を競う「葛城の峯G(ごせ)級グルメコンテスト」が1日、市内の葛城公園で開かれた。約7千人の来場者による投票の結果、最優秀賞には、市内の鴨都波(かもつば)神社の氏子団体女性部「鴨の宮鳳鴨会女性部」がフリー部門に出品した「鴨の宮 鴨らーめん」が選ばれた。地元産の合鴨の肉を使ったしょうゆベースのラーメンで、タマネギやニンジンなどの野菜がたっぷり入った、まろやかな味わいが特徴という。

コンテストは、地域活性化のため新たな名物料理を発掘しようと、市や市商工会などでつくる市制施行55周年記念事業実行委員会が主催。市特産の吐田郷(はんだごう)米などを使った「米部門」や、大和芋などを使った「芋部門」のほか、市内の食材やネーミングなどで自由に表現する「フリー部門」で争われた。空揚げやうどん、いなり、どて焼き、バーガーなど多彩なアイデア料理計26点が出品された。

会場では、来場者が思い思いの料理を購入して試食し、投票した。橿原市の主婦、今西すが子さん(65)は「たくさんの人が来ていて、びっくりしました。料理もおいしく、孫も楽しんでくれたので満足です」と話していた。

詳しい結果がテプテプワイフさんのブログ「葛城の峯グルメコンテスト結果」に出ていた。

米部門1位:ラッテたかまつ(古代米タコライス)
芋部門1位:JA掖上支店加工部(ヘルシーかもかもコロッケ)
フリー部門:シーナ(ごーせぃ山かけいなり)
審査員特別賞:木こり屋(賢者の杖・スティックケーキ)

総合最優秀賞:鴨の宮 鴨らーめん(鴨の宮鳳鴨会女性部)


各 皆様!おめでとうございました イベントは、本日限りですが…また、何かの機会に出店頂ければ、嬉しく思います。(食べれなくて悔しい思いをした方も、たくさんいるはず!) 御所産のものを使い、御所にちなんだ“品々” またここから!新たに『御所の名物』が生まれる事を願います


なお「鴨の宮」とは、弥生時代の中期はじめ、鴨族(鴨氏)が鴨都波神社周辺に住んでいたことにちなむ(鳥の鴨とは、直接の関係はない)。さらにコンテストの模様も、このブログの「2013 葛城の峯G級グルメコンテスト」に紹介されている。

御所市制施行55周年記念事業 ~冬~『2013 葛城の峯 G級グルメコンテスト』

お天気にも恵まれ、多くの方々が葛城公園へ足を運ばれたようでした 朝10時前から、会場側に居てましたが…続々と公園へ向かい人が集まってくるのがわかりました!(車や歩行者が多かった~) 11時販売開始だったのですが… 10時半前には各ブースに人が並び始め、開催の合図と共に人が波の様に動く!動く!買っては…また、別の商品を売る列の後ろへと並ぶのが早い!

ピークは、12時過ぎで人の多さに思わず…公園の遊具に登り写真を撮ってしまいました 12時をまわるとポツポツ完売しだすブースも出始め“さすが!食のイベント強し!”を痛感させられました。時より現れる“ゴセンちゃん”に黒山の人だかり(皆さん、記念写真を撮られてました)御所太鼓“燿”の力強い演奏に惹き付けられる会場の人々(太鼓の音色が、葛城公園に響き渡ってました)

大盛況だったこのイベント!会場を歩けば…懐かしい顔にたくさん出会い、ちょっとした同窓会状態で楽しかったですよ~。(こんなイベントが…また開催されたらいいのになぁ~♪と心から思いました) 企画・準備で沢山のスタッフの方々が動かれていました。その皆様!全員に“お疲れさまでした”そして“楽しい1日を!ありがとうございました”を贈りたいです。


「鴨の宮 鴨らーめん」は、鴨都波神社の秋祭りで振る舞われる鴨汁にラーメンを入れたものだそうだ。読売新聞奈良版には《最優秀賞は全部門の中から審査員の評価と来場者の投票の合計点で決定。「鴨らーめん」は、市内の鴨都波(かもつば)神社の秋祭りで振る舞われる鴨汁にラーメンを入れたもの。「鴨らーめん」に1票を投じた同市の会社員田中実さん(45)は「だしがきいた和風のスープとラーメンとの相性が抜群」と話していた》。

「鴨らーめん」に使われた合鴨こそ、何を隠そう「鴨重(かもじゅう)」の「倭鴨(やまとがも)」なのである。棚田社長、おめでとうございます! なお、芋部門1位の「ヘルシーかもかもコロッケ」(JA掖上支店加工部)も、倭鴨を使っているので、ダブル受賞だ。倭鴨は「葛城高原ロッジ」(国民宿舎)の鴨鍋やかも丼、最近では奈良市の「倭鴨焼肉 KAMOju」(なら街横丁)でも、焼肉鴨鍋としていただける。

私は最近、大和肉鶏、大和牛(やまとうし)、ヤマトポークの3つの畜産物に倭鴨(やまとがも)を加え、「お肉のYAMATO四天王」と呼んでいる。
グルメコンテストで最優秀賞を受賞した倭鴨、奈良県の名物食材として、日本全国を制覇できるカモ?
コメント (4)
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法輪寺「三重塔」再建秘話(産経新聞「なら再発見」第56回)

2013年12月02日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の(永遠に続きそうな…)「なら再発見」、今回(11/30付)のタイトルは《法輪寺三重塔 小説「五重塔」のゆかり結ぶ》、筆者はNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さんだ。

石田さん(奈良市出身・在住)は最近、精力的に出稿していただいており、このコーナーの管理者として、とても有り難い存在である。カバーされるエリアも奈良市から県下全域に広がり、バラエティに富んできた。他の執筆者も、ぜひ学んでいただきたいものだ。では、全文を紹介する。

 「斑鳩三塔(いかるがさんとう)」とは、法隆寺五重塔、法輪寺三重塔、法起寺(ほうきじ)三重塔。法隆寺から北東に並ぶ斑鳩町の3つの塔だ。聖徳太子ゆかりの寺や、その歴史と深く関わってきた集落の中に塔が点在する風景は、決して他所では見られない。
 しかし今年で25周年を迎えた世界遺産「法隆寺地域の仏教建造物」の構成資産に、法輪寺三重塔は入っていない。昭和50年の再建だからだ。
 7世紀に創建されたとされる法輪寺の三重塔は、江戸時代の台風で金堂などの諸堂が倒壊し、かろうじて塔だけが三層目を吹き飛ばされながらも残った。
 修復の後、明治時代に最大最古の三重塔として国宝に指定され、解体修理も行われたが、太平洋戦争中の昭和19年7月の落雷で炎上、焼失した。戦時中の金属供出で避雷針がなくなっていたからだといわれる。



写真はすべて石田さんの撮影

 落雷の衝撃で、竜車(塔の先端部にある相輪のうち上から2番目)に納められていた仏舎利が、容器ごと飛び出して焼失を免れた。容器を包んでいた金襴(きんらん)の袋ごと偶然、当時小学生だった元住職の井ノ上康世師に拾われた。その仏舎利は、再建された塔の心礎に安置されている。
 当時の住職・井ノ上慶覺(けいがく)師は焼失直後から再建を決意し、ようやく昭和30年代後半から再建事業としての形をとりはじめた。
 しかし、国宝指定解除により国の補助金が出ないため、全額を自前で調達しなければならなかった。寄付を募って資金を準備し、ようやく用材を購入してめどが立ったところへ、万博景気などによる人件費の高騰で資金不足に陥り、工事は頓挫した。
 そこで支援に立ち上がったのが小説「五重塔」で知られる明治の文豪・幸田(こうだ)露伴(ろはん)の娘で、随筆家・小説家の幸田文(あや)だ。
 小説「五重塔」は、腕はあるが貧しく世間から評価されていない大工・のっそり十兵衛が、谷中感応寺(やなかかんのうじ)(東京都台東区、現在の名称は天王寺)に五重塔が建立されることを聞いて、一生に一度の仕事をやり遂げたいと決意。困難を乗り越えて塔を完成させる話だ。

 五重塔 (岩波文庫)
 幸田露伴
 岩波書店

 彼女は法輪寺三重塔再建のため、前進座で上演された劇「五重塔」の上演料や精力的に行った講演の謝礼金を自ら寄進。寄進集めの先頭に立った。
 官公庁との交渉を買って出るなど精力的に支援を続け、46年から約1年間は法輪寺の近くに仮住まいを設け、工事の進捗(しんちょく)を見守った。着物姿で工事現場の足場をのぼる姿が写真に残されている。
 慶覺住職の後をついだ康世住職の全国勧進行脚や幸田の呼びかけに応えた全国からの支援もあって、ようやく資金が調った。
 工事は「最後の宮大工」といわれた西岡常一棟梁(とうりょう)のもと、50年3月、旧来の場所に創建当初の姿で再建された。現在の塔内には焼失時に救出された釈迦如来座像と四天王像が安置されている。
 昭和の人の知恵と努力で蘇った「飛鳥時代の塔」と、日本最古の五重塔・三重塔が立ち並ぶ「斑鳩三塔」をたどり、先人の労苦に思いを致してほしい。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)


 木 (新潮文庫)
 幸田文
 新潮社

幸田文の著作を初めて読んだのは、随筆集『木』だった。私の長男が高校生の時、修学旅行で屋久島へ行くことになり、それで『木』が課題図書になった。どれどれと横取りして読んでみたところ、リアリズムというのか、果敢な行動力に裏打ちされた明快な文章には、感嘆した。幸田は屈強の男に背負われてまで、北海道のエゾマツや屋久島の縄文杉に会いに行くのである。だから「法輪寺の近くに仮住まいを設け、工事の進捗を見守った。着物姿で工事現場の足場をのぼる姿が写真に残されている」というのも、さもありなん。三重塔再建にどれほど情熱を注いだのか、想像がつく。

この三重塔が「戦時中の金属供出で避雷針がなくなっていた」ことで炎上したり、「万博景気などによる人件費の高騰で資金不足に陥り、工事は頓挫した」ことは今回、初めて知った。時代の波に翻弄されていたのである。それはある意味、幸田文の人生とも重なり合う。

石田さん、興味深いお話を有難うございました!

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