今井町(橿原市)は、戦国時代にできた寺内町である。先日、朝のNHKニュースで、町の古い環濠(かんごう)の発掘調査を報じていた。環濠の幅は20mに及び、そこから天正年間のものと見られる弾丸が出てきたという。市の文化財課職員は「織田信長の軍勢が、脅しのために打ち込んだ銃弾かも知れない」と話していた。これはすごい。奈良新聞(11/28付)「埋めた環濠の一部発見 橿原・今井町」によると、
※トップ写真は産経新聞(11/27付)から拝借。こんな巨大な濠だったのだ
戦国時代に一向宗の寺内町として発展した橿原市今井町で、16世紀後半に埋められた環濠(かんごう)の一部が見つかり、市教育委員会が27日、発表した。環濠の中から銃弾とみられる鉛玉も出土。今井町は戦国武将の織田信長に対抗した後、降伏しており、武装宗教都市だった今井町の歴史の一端を示す資料となる。
環濠整備に伴い今井町の南西部650平方メートルを市教委が調査。南北に延びる深さ80センチ以上の環濠を確認した。西隣で行われた平成23年度の調査と合わせると、幅15~20メートルの大規模な濠(ほり)と推定できる。濠の中央付近では、今井町では初めて銃弾とみられる鉛玉(直径約1・2センチ)が2個出土した。
同町は、一向宗の本山・石山本願寺に呼応して信長に対抗したが、信長の命を受けた明智光秀に攻められ、天正3(1575)年に降伏した。町内の称念寺に残る赦免状には、町の構えを崩すことが降伏の条件に挙げられている。調査を担当した市教委文化財課の石坂泰士主査は「破格の大きさの濠で、外圧がないと埋められることはない。信長と争っていた時期に脅しとして銃弾が打ち込まれ、降伏で濠が埋められたのではないか」と話す。
調査地では江戸時代初め(17世紀初め)以降の濠も見つかった。大阪方とにらみ合いがあったとされる大坂夏の陣(1615年)で、新たな濠を造り直したと考えられるという。現地説明会は30日午前9時~午後3時。近鉄八木西口駅から南西に徒歩約15分。説明会用の駐車場はない。小雨決行。
11/30の現地説明会の模様が、若林稔さん(今井町町並み保存会会長)のFacebookに紹介されていた(説明会資料は、若林さんのブログに載っている)。
現地説明会が橿原市教育委員会によって行われた。前回(2011年11月30日)の拙ブログ「今井町で旧い3重環濠遺跡が発掘された」で記載による発掘調査により見つかった3重堀の再発掘で、より精度な今井町の環濠の様子が判明した。
この場所は行政の指導により、今井町を観光の重要な拠点にしようとする1つとして交通広場を計画しているところで、そのための発掘調査で見つかった3重堀の再調査であり、江戸期の新堀までの復元は約束してくれているが、今回新たに判明した織田信長侵攻時に既に存在していたもっとも古い大規模な環濠跡は今回の調査でどこまで残してくれるのだろうか。
現場説明会でも、橿原市伝統的建造物群保存地区保存審議会でも、今井町町並み保存住民審議会でも伝えてきたが、今井町の東側で卒川がなくなり、どこにでもある都市公園になってしまった前例のように、今回も私が望む保存は夢うたかたに終わるのだろうか。町案内で得意になって今井の先人たちの遺徳を説明できる宝物を残してほしい!
せっかく出てきた戦国時代の大環濠を埋め戻して「交通広場」にするとは、何とももったいない。今井町は、江戸時代にできた町とよく誤解される。「歴史に憩う橿原市博物館」でも、江戸時代の町並みとしてパネルなどが展示されているが、すでに戦国時代には成立していた寺内町である。だから天正年間に織田信長がここを攻めたのだ。そのような史実を後世に伝える意味でも、戦国時代の環濠を残すことには大きな意義がある。ぜひ、保存をお願いしたい。
※トップ写真は産経新聞(11/27付)から拝借。こんな巨大な濠だったのだ
戦国時代に一向宗の寺内町として発展した橿原市今井町で、16世紀後半に埋められた環濠(かんごう)の一部が見つかり、市教育委員会が27日、発表した。環濠の中から銃弾とみられる鉛玉も出土。今井町は戦国武将の織田信長に対抗した後、降伏しており、武装宗教都市だった今井町の歴史の一端を示す資料となる。
環濠整備に伴い今井町の南西部650平方メートルを市教委が調査。南北に延びる深さ80センチ以上の環濠を確認した。西隣で行われた平成23年度の調査と合わせると、幅15~20メートルの大規模な濠(ほり)と推定できる。濠の中央付近では、今井町では初めて銃弾とみられる鉛玉(直径約1・2センチ)が2個出土した。
同町は、一向宗の本山・石山本願寺に呼応して信長に対抗したが、信長の命を受けた明智光秀に攻められ、天正3(1575)年に降伏した。町内の称念寺に残る赦免状には、町の構えを崩すことが降伏の条件に挙げられている。調査を担当した市教委文化財課の石坂泰士主査は「破格の大きさの濠で、外圧がないと埋められることはない。信長と争っていた時期に脅しとして銃弾が打ち込まれ、降伏で濠が埋められたのではないか」と話す。
調査地では江戸時代初め(17世紀初め)以降の濠も見つかった。大阪方とにらみ合いがあったとされる大坂夏の陣(1615年)で、新たな濠を造り直したと考えられるという。現地説明会は30日午前9時~午後3時。近鉄八木西口駅から南西に徒歩約15分。説明会用の駐車場はない。小雨決行。
11/30の現地説明会の模様が、若林稔さん(今井町町並み保存会会長)のFacebookに紹介されていた(説明会資料は、若林さんのブログに載っている)。
現地説明会が橿原市教育委員会によって行われた。前回(2011年11月30日)の拙ブログ「今井町で旧い3重環濠遺跡が発掘された」で記載による発掘調査により見つかった3重堀の再発掘で、より精度な今井町の環濠の様子が判明した。
この場所は行政の指導により、今井町を観光の重要な拠点にしようとする1つとして交通広場を計画しているところで、そのための発掘調査で見つかった3重堀の再調査であり、江戸期の新堀までの復元は約束してくれているが、今回新たに判明した織田信長侵攻時に既に存在していたもっとも古い大規模な環濠跡は今回の調査でどこまで残してくれるのだろうか。
現場説明会でも、橿原市伝統的建造物群保存地区保存審議会でも、今井町町並み保存住民審議会でも伝えてきたが、今井町の東側で卒川がなくなり、どこにでもある都市公園になってしまった前例のように、今回も私が望む保存は夢うたかたに終わるのだろうか。町案内で得意になって今井の先人たちの遺徳を説明できる宝物を残してほしい!
せっかく出てきた戦国時代の大環濠を埋め戻して「交通広場」にするとは、何とももったいない。今井町は、江戸時代にできた町とよく誤解される。「歴史に憩う橿原市博物館」でも、江戸時代の町並みとしてパネルなどが展示されているが、すでに戦国時代には成立していた寺内町である。だから天正年間に織田信長がここを攻めたのだ。そのような史実を後世に伝える意味でも、戦国時代の環濠を残すことには大きな意義がある。ぜひ、保存をお願いしたい。