産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、今回(11/29)の見出しは「近鉄奈良線 開業100年 地域とともに走る」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」の石田一雄さん(奈良市在住)だ。石田さんは当欄の最多出稿者である。近鉄100年の歴史をコンパクトにまとめて紹介されている。では全文を以下に掲載する。
※トップ写真は、近鉄奈良線100周年記念「ヒストリートレイン」。近鉄のFacebookから拝借
奈良市で育った私にとって、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線は思い出の多い路線だ。小学生だった約50年前、大阪へ出かけるのは楽しい小旅行だった。学園前の住宅地が開発され始めた頃で、あやめ池から生駒までの間には、雑木林の丘陵地があちこちに残っており、町らしいのは西大寺、生駒の駅周辺だけだった。
今年は近鉄奈良線開業から100周年で、様々な記念イベントが行われた。大正3年4月30日、近鉄の前身・大阪電気軌道株式会社(大軌)が大阪上本町―奈良間の路線を開業した。所要時間は55分、奈良県側は生駒、富雄、西大寺、奈良の4駅だった。当初の奈良駅は高天町の仮駅で7月に現在地まで延伸して全通した。その際設置された奈良駅前駅は、現在のJR奈良駅への乗換駅で、後に油阪(あぶらさか)駅と改称された。
その長い歴史の跡をたどってまず旧生駒トンネルを訪ねた。
※ ※ ※
大阪・石切側には線路敷きや旧孔舎衛坂(くさえざか)駅のプラットホームが残り、重厚な石積みアーチの入り口を通ってレンガ積みのトンネル内部に入る。許可がないと入れないが、最近は見学会などが時折催されている。
旧生駒トンネルの石切側入り口
当時大阪―奈良間には、鉄道院(現在のJR)の関西本線と片町線があり、それぞれ生駒山地を迂回(うかい)して南端と北端を通っていた。当初はケーブルカーで山越えする構想もあったが、最短経路をめざし生駒山地をトンネルで貫く計画となった。
路線建設の最大の難関がトンネルだった。明治44年に着工したが、地質の変化や湧水で予想以上の難工事となり、工事費用が見込みを上回って資金繰りも逼迫(ひっぱく)。大正3年、全長3388メートルと複線標準軌では当時日本最長のトンネルがようやく開通した。
工事中の大正2年の落盤事故は大規模なもので、約150人が生き埋めとなり、19人の犠牲者が出た。朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も犠牲となった。
その供養碑がある。生駒駅から旧生駒トンネルの北側坂道を登っていくと、西教寺墓地(生駒市元町)があり、その中に落盤事故犠牲者の墓石と供養碑が立つ。供養碑の真下に今も列車が走るトンネルがある。宝山寺参道に近い宝徳寺(生駒市本町)境内には、「韓國人犠牲者無縁佛慰霊碑」が立つ。
このトンネルは、その後の沿線の宅地開発と人口増加に伴う乗客増加に対応するため、大型車両が通れる新生駒トンネルが開削されたので、昭和39年に路線用としての役目は終えた。ただ今も現役で、新生駒トンネルでの災害発生時の避難路や保線作業に使われ、生駒側の一部がけいはんな線の路線として再利用されている。
※ ※ ※
大軌創業時代の施設として最古の現存建物が、旧富雄変電所だ。富雄駅のすぐ北にあり、駅のホームからも良く見えるレンガ造りの建物だ。大正3年奈良線開業時に配電用・電鉄用変電所として建造されたうち唯一残っている歴史的建造物だ。東西の側壁上部には変電所として使用されたことを示す配線孔跡が残っている。
旧冨雄変電所=奈良市
建物は昭和44年変電所としての役目を終えた後、ホームセンターや飲食店に利用されてきたが、今後の再活用が待たれる。
※ ※ ※
奈良市内の路面を電車が走っていたというと驚かれるかもしれない。
以前、大和西大寺駅を出た奈良行きの列車は地上の関西本線を高架橋でまたぎ、高架上の「油阪駅」に到着した。駅を出ると地上を走り、大宮通との併用軌道を通って地上の奈良駅に入った。
奈良駅が地下化されたのは、大阪万博前の昭和44年12月。油阪駅は同時に廃止され、代わりに新大宮駅が開業した。「油阪」は交差点名やバス停名(油阪船橋商店街前)に名残をとどめている。
奈良線は、近鉄の創業路線であり、その中心的な路線であった。阪神電鉄との相互乗り入れも実現し、今後も観光や通勤通学の足として重要な中核路線であり続けるだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
いつもの難解な歴史物ではなく、近鉄の話だったので、スッと頭に入った。南海高野線沿線(最寄り駅は九度山駅)で育った私にとっては、電車といえば南海、バスは南海パス、デパートといえば難波の高島屋だったが、奈良生まれの人は、近鉄、奈良交通に近鉄百貨店とすべてが近鉄系なので、この会社には思い入れがことのほか深いのだろう。
石田さん、興味深いお話を有難うございました!
※トップ写真は、近鉄奈良線100周年記念「ヒストリートレイン」。近鉄のFacebookから拝借
奈良市で育った私にとって、近畿日本鉄道(近鉄)奈良線は思い出の多い路線だ。小学生だった約50年前、大阪へ出かけるのは楽しい小旅行だった。学園前の住宅地が開発され始めた頃で、あやめ池から生駒までの間には、雑木林の丘陵地があちこちに残っており、町らしいのは西大寺、生駒の駅周辺だけだった。
今年は近鉄奈良線開業から100周年で、様々な記念イベントが行われた。大正3年4月30日、近鉄の前身・大阪電気軌道株式会社(大軌)が大阪上本町―奈良間の路線を開業した。所要時間は55分、奈良県側は生駒、富雄、西大寺、奈良の4駅だった。当初の奈良駅は高天町の仮駅で7月に現在地まで延伸して全通した。その際設置された奈良駅前駅は、現在のJR奈良駅への乗換駅で、後に油阪(あぶらさか)駅と改称された。
その長い歴史の跡をたどってまず旧生駒トンネルを訪ねた。
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大阪・石切側には線路敷きや旧孔舎衛坂(くさえざか)駅のプラットホームが残り、重厚な石積みアーチの入り口を通ってレンガ積みのトンネル内部に入る。許可がないと入れないが、最近は見学会などが時折催されている。
旧生駒トンネルの石切側入り口
当時大阪―奈良間には、鉄道院(現在のJR)の関西本線と片町線があり、それぞれ生駒山地を迂回(うかい)して南端と北端を通っていた。当初はケーブルカーで山越えする構想もあったが、最短経路をめざし生駒山地をトンネルで貫く計画となった。
路線建設の最大の難関がトンネルだった。明治44年に着工したが、地質の変化や湧水で予想以上の難工事となり、工事費用が見込みを上回って資金繰りも逼迫(ひっぱく)。大正3年、全長3388メートルと複線標準軌では当時日本最長のトンネルがようやく開通した。
工事中の大正2年の落盤事故は大規模なもので、約150人が生き埋めとなり、19人の犠牲者が出た。朝鮮半島からの出稼ぎ労働者も犠牲となった。
その供養碑がある。生駒駅から旧生駒トンネルの北側坂道を登っていくと、西教寺墓地(生駒市元町)があり、その中に落盤事故犠牲者の墓石と供養碑が立つ。供養碑の真下に今も列車が走るトンネルがある。宝山寺参道に近い宝徳寺(生駒市本町)境内には、「韓國人犠牲者無縁佛慰霊碑」が立つ。
このトンネルは、その後の沿線の宅地開発と人口増加に伴う乗客増加に対応するため、大型車両が通れる新生駒トンネルが開削されたので、昭和39年に路線用としての役目は終えた。ただ今も現役で、新生駒トンネルでの災害発生時の避難路や保線作業に使われ、生駒側の一部がけいはんな線の路線として再利用されている。
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大軌創業時代の施設として最古の現存建物が、旧富雄変電所だ。富雄駅のすぐ北にあり、駅のホームからも良く見えるレンガ造りの建物だ。大正3年奈良線開業時に配電用・電鉄用変電所として建造されたうち唯一残っている歴史的建造物だ。東西の側壁上部には変電所として使用されたことを示す配線孔跡が残っている。
旧冨雄変電所=奈良市
建物は昭和44年変電所としての役目を終えた後、ホームセンターや飲食店に利用されてきたが、今後の再活用が待たれる。
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奈良市内の路面を電車が走っていたというと驚かれるかもしれない。
以前、大和西大寺駅を出た奈良行きの列車は地上の関西本線を高架橋でまたぎ、高架上の「油阪駅」に到着した。駅を出ると地上を走り、大宮通との併用軌道を通って地上の奈良駅に入った。
奈良駅が地下化されたのは、大阪万博前の昭和44年12月。油阪駅は同時に廃止され、代わりに新大宮駅が開業した。「油阪」は交差点名やバス停名(油阪船橋商店街前)に名残をとどめている。
奈良線は、近鉄の創業路線であり、その中心的な路線であった。阪神電鉄との相互乗り入れも実現し、今後も観光や通勤通学の足として重要な中核路線であり続けるだろう。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 石田一雄)
いつもの難解な歴史物ではなく、近鉄の話だったので、スッと頭に入った。南海高野線沿線(最寄り駅は九度山駅)で育った私にとっては、電車といえば南海、バスは南海パス、デパートといえば難波の高島屋だったが、奈良生まれの人は、近鉄、奈良交通に近鉄百貨店とすべてが近鉄系なので、この会社には思い入れがことのほか深いのだろう。
石田さん、興味深いお話を有難うございました!