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剣豪・荒木又右エ門/大和郡山市城南町に屋敷跡(毎日新聞「ディスカバー!奈良」第81回」)

2018年09月22日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。9月6日(木)付で掲載されたのは「剣豪の息吹にロマン/大和郡山市の荒木又右衞門屋敷跡」、執筆されたのは奈良市在住の久門たつおさんである。剣豪・荒木又右エ門といえば、「伊賀越えの仇(あだ)討ち」で知られている。『世界大百科事典』の「荒木又右エ門」によると、
※写真は、又右衞門時代が生きた時代の雰囲気を伝える「黒門」。奥の藤原さん宅の地に又右衞門の屋敷があった

又右衛門の妻が備前岡山藩主池田忠雄の家臣渡辺源太夫の姉であった関係で,源太夫が同藩の河合又五郎に殺害され,その兄渡辺数馬の依頼で仇討の助太刀をすることになる。1634年(寛永11)11月,伊賀上野鍵屋の辻で本懐を遂げた。これがいわゆる〈伊賀越の敵討〉で,〈日本三大敵討〉の一つに数えられる。戦闘は午前8時から午後2時まで6時間に及んだが,死者は渡辺方1名,河合方4名の5名で,荒木又右衛門の36人切りは史実ではない。又右衛門らは一躍英雄となり,鳥取池田藩に引き取られるが,鳥取到着後わずか17日目に急死した。その死因は多くの疑問と憶測を生み,なぞとされている。

というものである。詳しくはWikipedia「鍵屋の辻の決闘」をご参照のこと。では久門さんの記事全文を紹介する。


門に設置された「荒木又右衞門屋敷跡」の石製標柱

日本三大仇討ちの一つとされる、1634(寛永11)年の「伊賀越えの仇討ち」で義弟を助太刀する剣豪の荒木又右衞門は、29歳のころから大和郡山藩の藩主、松平忠明の剣術師範役を5年ほど務めていました。又右衞門の屋敷と道場は、大和郡山城南西の外堀に隣接していたといいます。

その地に少年時代に引っ越し、現在も暮らす藤原昌(あつし)さん(87)によると、「黒門」と呼ばれた又右衞門時代の門はほぼ当時のままだそうです。また、屋敷の一部は半世紀前に建て替えるまでは残っており、玄関の柱には弓に弦を張る時に当ててできた凸凹があったといいます。藤原さんは「又右衞門が付けたものと聞いていましたが、残念ながら残っていません」と話してくれました。
 
伊賀で生まれ、仇討ちの4年後に鳥取で享年40で早世した荒木又右衞門。宮本武蔵とも面識があった剣豪が黒門をくぐる姿が目に浮かびます。

■メモ:屋敷跡は大和郡山市城南町。近鉄橿原線郡山駅から西へ徒歩約10分((奈良まほろばソムリエの会理事 久門たつお))。


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