前回は橋本輝彦氏の大型建物(纒向遺跡)などのお話を紹介した。今回はガラリと変わり、「ミスター吉野ヶ里(よしのがり)」の異名を持つ高島忠平氏(佐賀女子短期大学元学長、学校法人旭学園理事長)の邪馬台国九州説を紹介する。出所は、前回と同じ朝日選書『研究最前線 邪馬台国』の「第2章近畿説はありえない」である。
私は、九州に邪馬台国があると考えたほうが日本の国家史を理解するうえで合理的だと考えています。
一元的な国家論に連なる近畿説は、間違いだと考えるからです。
邪馬台国はどのように記されているか―国の成立 最初に列挙すると
(1)「魏志倭人伝」に記す諸国の成立状況が北部九州のこの時代の状況と合致すること。
(2)「魏志倭人伝」は弥生時代後半、北部九州の環濠集落の時代を記していること。
(3)邪馬台国は国際性が豊かであること。魏国に使者を送り、現在の朝鮮半島とも交流があり、中国大陸との一般的な交流もある。当然、国際性が豊かでなければいけない。
(4)巫女(みこ)王卑弥呼は北部九州でしか成立しえないこと。これは考古学的に証明できます。
(5)卑弥呼の墓は小型の方形周溝墓でもよい。
「魏志倭人伝」の時代は北部九州の環濠集落の時期、弥生時代後期後半であるが、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は邪馬台国時代には存在しなかった、と近畿説をとる方の発言によくみられますが、それは逆ですね。土器とともに出てくる鉄器、青銅器などの資料や、海外からもたらされた年代の明らかな舶来の鏡片など中国の資料を参考にして年代を推定し、われわれは吉野ヶ里遺跡を邪馬台国時代の環濠集落だと判断したのです。むしろ「近畿説」の多くの方の「邪馬台国時代」の遺跡はおおかたが4世紀以降の所産です。
注目したいのは、吉野ヶ里遺跡に歴代の王の墓(北墳丘墓[きたふんきゅうぼ]とよびます)があることです。紀元前2世紀に築造され、紀元2~3世紀まで祭りがおこなわれています。その南800メートルに方形の大きな祭壇が設けられ、北墳丘墓の祖霊以外の諸神々を祭っています。
棺外に置かれた破鏡は、被葬者の霊を封じ込める呪器としての意味があります。埋葬された人、被葬者の霊魂やあるいは霊力がよみがえることを封じ込めたわけです。
そういう意味では、卑弥呼の墓は、大量の破鏡が出土した平原遺跡の1号周溝墓だと考えてもいいでしょう。ここには40数面の割れた鏡が棺の外側に置いてあります。これは副葬品ではありません。ほかの例からいっても、多量の呪符の破鏡の存在、これは平原の被葬者の強大な霊力を封じ込めようとした行為であると私はみています。卑弥呼の墓は、大型の墳丘墓でもなく、前方後円墳でもなく、小型の方形周溝墓でいいと考えています。
これまでお話してきたように、日本の古代国家の成立過程からみれば、邪馬台国九州説で理解するのが合理的でしょう。
状況からみれば、何か一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい。いわば東遷説、近畿説もそうですが、どこかに一元的な政治権力が発生したというわけではない。しかし最終的にヤマト王権が各地に発生した王権との抗争を経て6世紀には統一国家の成立の覇権を握ると、私は思っています。
「卑弥呼の墓は小型の方形周溝墓でもよい」というくだりは、邪馬台国畿内説の支持者には引っかかるところだろう。魏志倭人伝には「径(けい)百余歩」とあり、直径約150メートルの円形の墓が想定されるからだ。ここは畿内説の「箸墓」を充てるほうがスッキリする。九州説の根本にあるのは「一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい」という国家観のようだ。次回は畿内説を検証してみたい。
私は、九州に邪馬台国があると考えたほうが日本の国家史を理解するうえで合理的だと考えています。
一元的な国家論に連なる近畿説は、間違いだと考えるからです。
邪馬台国はどのように記されているか―国の成立 最初に列挙すると
(1)「魏志倭人伝」に記す諸国の成立状況が北部九州のこの時代の状況と合致すること。
(2)「魏志倭人伝」は弥生時代後半、北部九州の環濠集落の時代を記していること。
(3)邪馬台国は国際性が豊かであること。魏国に使者を送り、現在の朝鮮半島とも交流があり、中国大陸との一般的な交流もある。当然、国際性が豊かでなければいけない。
(4)巫女(みこ)王卑弥呼は北部九州でしか成立しえないこと。これは考古学的に証明できます。
(5)卑弥呼の墓は小型の方形周溝墓でもよい。
地を這いて光を掘る―佐賀女子短期大学学長・高島忠平聞書 | |
南陽子 | |
西日本新聞社 |
「魏志倭人伝」の時代は北部九州の環濠集落の時期、弥生時代後期後半であるが、吉野ヶ里遺跡の環濠集落は邪馬台国時代には存在しなかった、と近畿説をとる方の発言によくみられますが、それは逆ですね。土器とともに出てくる鉄器、青銅器などの資料や、海外からもたらされた年代の明らかな舶来の鏡片など中国の資料を参考にして年代を推定し、われわれは吉野ヶ里遺跡を邪馬台国時代の環濠集落だと判断したのです。むしろ「近畿説」の多くの方の「邪馬台国時代」の遺跡はおおかたが4世紀以降の所産です。
注目したいのは、吉野ヶ里遺跡に歴代の王の墓(北墳丘墓[きたふんきゅうぼ]とよびます)があることです。紀元前2世紀に築造され、紀元2~3世紀まで祭りがおこなわれています。その南800メートルに方形の大きな祭壇が設けられ、北墳丘墓の祖霊以外の諸神々を祭っています。
棺外に置かれた破鏡は、被葬者の霊を封じ込める呪器としての意味があります。埋葬された人、被葬者の霊魂やあるいは霊力がよみがえることを封じ込めたわけです。
そういう意味では、卑弥呼の墓は、大量の破鏡が出土した平原遺跡の1号周溝墓だと考えてもいいでしょう。ここには40数面の割れた鏡が棺の外側に置いてあります。これは副葬品ではありません。ほかの例からいっても、多量の呪符の破鏡の存在、これは平原の被葬者の強大な霊力を封じ込めようとした行為であると私はみています。卑弥呼の墓は、大型の墳丘墓でもなく、前方後円墳でもなく、小型の方形周溝墓でいいと考えています。
これまでお話してきたように、日本の古代国家の成立過程からみれば、邪馬台国九州説で理解するのが合理的でしょう。
状況からみれば、何か一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい。いわば東遷説、近畿説もそうですが、どこかに一元的な政治権力が発生したというわけではない。しかし最終的にヤマト王権が各地に発生した王権との抗争を経て6世紀には統一国家の成立の覇権を握ると、私は思っています。
「卑弥呼の墓は小型の方形周溝墓でもよい」というくだりは、邪馬台国畿内説の支持者には引っかかるところだろう。魏志倭人伝には「径(けい)百余歩」とあり、直径約150メートルの円形の墓が想定されるからだ。ここは畿内説の「箸墓」を充てるほうがスッキリする。九州説の根本にあるのは「一系的な政治権力で日本列島の国家が成立してくるとは考えにくい」という国家観のようだ。次回は畿内説を検証してみたい。
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