■ 今夜も村上春樹。
『スプートニクの恋人』の大半は昨日電車の中で読んだ。『ダンス・ダンス・ダンス』と同様の精神世界を描いているのだろうが、その広がりをあまり感じることなく、今日読み終えた。
物語は表面上シンプル。主な登場人物も三人と少ない。国立に住んでいるぼくは小学校の教師をしている(余談だが僕も昔国立に住んでいた)。すみれはぼくが好意を寄せる女性。そしてミュウはすみれが恋してしまった年上の女性。さらにもう二人挙げれば、ぼくの教え子のにんじんとその母親。この二人も読み様によっては重要な役割を負っている。すみれはミュウと仕事の関係でヨーロッパに出かけてギリシャで失踪してしまう。失踪したというより消えたというべきか。
**すみれはあちら側に行ったのだ。**
**すみれがぼくにとってどれほど大事な、かけがいのない存在であったかということが、あらためて理解できた。すみれは彼女にしかできないやりかたで、ぼくをこの世界につなぎ止めていたのだ。**
**ひとりぼっちであるというのは、ときとして、ものすごくさびしいことなんだって思うようになった。**
喪失感、孤立感を味わうぼく。
**ぼくらは同じ世界の同じ月を見ている。ぼくらはたしかにひとつの線で現実につながっている。ぼくは、それを静かにたぐり寄せていけばいいのだ。**
自己回復、自己再生の兆しを示して『ダンス・ダンス・ダンス』と同様にこの物語は終る。小説の完成度という点では『ダンス・ダンス・ダンス』の方がかなり高いのではないか。
ところでこの小説にはこんなくだりがある。**ミュウはスイスの小さな町の遊園地で、一晩観覧車の中に閉じ込められ、双眼鏡で自分の部屋の中にいるもう一人の自己の姿を見る。ドッペルゲンガーだ。(中略)彼女は一枚の鏡を隔てて分割されてしまったわけだ。**
これは『アフターダーク』のマリと姉のエリの関係に似ているというか同じだ。エリはマリが乖離した半分と見ることができるだろう。
つまり『アフターダーク』は乖離してしまった自己の再統合のプロセスを描いた物語という理解も可能だろう。このテーマをすでに先に引用した部分に見出すことができると気がついた。
どうやら全ての小説を統合することで浮かび上がる意味や構造があるようだ・・・。
『風の歌を聴け』
『1973年のピンボール』
『羊をめぐる冒険』
『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』
『ノルウェイの森』
『ダンス・ダンス・ダンス』
『国境の南、太陽の西』
『ねじまき鳥クロニクル』
『スプートニクの恋人』
『海辺のカフカ』
『アフターダーク』
さて、次はこれ。