透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

ストライプな畑に咲くパラソル

2007-08-05 | A あれこれ


 
夏のフォトアルバム 3 070805

「ストライプな畑に咲くパラソル」


「地球(ほし)の旅人」@松本市美術館

菊池哲夫さん、前川貴行さん、林明輝さん、それに地元松本出身の穂刈三寿雄さん、4人の写真家の作品展を観た。

自然は実に多様な表情を見せる。自然に魅せられた写真家たち、それぞれの個性が捉えたその表情。特に私が魅了されたのは菊地哲夫さんの夜の山をテーマにした作品。

・月明かりに浮かび上がる山々、遠くに見える人間の営みの明かり。
・満天の星たちの円を描く軌跡。
・静寂な夜の世界。

写真は空間と時間を切り取る芸術、そしてそこには撮る人の感性と知性がストレートに表れる、と改めて思った。この作品展は今日が最終日、見逃さなくてよかった。


 


そろそろ帰り仕度

2007-08-05 | A 読書日記



 前稿の「消去の美学」の実践、写真をギリギリまでトリミング。グラフィカルな表現になった。『ねじまき鳥クロニクル』いよいよ第3部。村上春樹の長編小説を巡る旅も最後となった。

先日、満月の表面のパターンがうさぎに見えるのは、そういう先入観で見るからだ、と書いた。

小説を読むのも同じで村上春樹の小説も実はそのように先入観をもって読んでいるのだ、と書いた。そのことがどうもよく分からないと訊かれてしまったので少し補足。

小説も先入観をもって読み始める。これは青春小説だとか、恋愛小説だとかいうように、特定のジャンルというかテーマに読む前から位置付けている。ただ村上春樹の小説の場合は、そのテーマが読み手によって様々、ひとつに特定されない。多様な解釈が可能だ。そこが魅力といえば魅力なんだろう。その多様性が、海外でも評価される一因ではないか、と思う。誰でも作品を通じて自分を語りたいもの、その点において村上作品は好都合といえはしないか。

文庫本には解説がつきものだが彼の作品の場合にはそれが無い。読者に先入観を与えないためなのかどうなのか、とにかく無い。

「自己喪失とその回復」がテーマとも聞くが全ての作品をそのように括ることはできないだろう。彼の小説についてはいろんな解説本が書店に並んでいるが、敢えてそれらを読むことはしなかった。この小説を読み終えたら、少し読んでみよう。


私の好きな絵

2007-08-05 | A あれこれ


■ 先日 東京のブリヂストン美術館で買い求めた絵はがき。
「テラスの広告」という佐伯祐三の作品で1927年の作だと印されている。

抽象画のような雰囲気が漂うこの絵がブリヂストン美術館の展示作品の中で一番気に入った。ミロやカンディンスキー、ビュッフェなどの絵が好きだから自分がこの絵を気に入ったというのもよく分かる。

ところで、絵画などをとり上げているブログには鮮明な絵がよく載っているが、あの画像データはどのようにしてつくっているんだろう、と常々不思議に思っていた。私は専ら写真に撮ってアップしているが、今回は試しに絵はがきをスキャニング、そのデータを加工してみた。

そうだ、この手法を使えば例えば手書きの年賀状だって載せることができる(まだ先のことだが)。手間がかかるから頻繁にできる訳ではないが。

消去の美学

2007-08-05 | A あれこれ



  Less is more. ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエのこのことばは「白の建築」の美の本質を突いている。単純なものほどより多くを語る。それは「消去の美学」と表現してもいいかもしれない。消し去ることによって浮かび上がってくる本質的な美の世界。茶室、生け花・・・日本の美は「消去の美学」にその本質があるのではないか。

床の間に生けた一輪の花を際立たせるために庭の花を全て摘み取ってしまったのは確か利休。千利休を描いた映画にそんなシーンが登場したような記憶がある。

茶室、八畳から六畳、四畳半、三畳、二畳、そして一畳。消し去って消し去って最後に残ったたった一畳、究極の茶室。

床の間、その床面を消し去って壁だけを残した壁床。そこに生ける花も一輪、花の美しさが際立つ。

庭、その構成要素となる庭木を消し去って、最後に残った砂と石だけの庭。

Less is more. そこに日本の伝統的な美の本質があるような気がする。

昨晩の宴席で撮った写真。切り取っても、切り取ってもその人の雰囲気が漂う。