透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

センセイ、帰り道がわかりません。

2008-09-04 | A 読書日記



 今夜、とんねるずの番組に小泉今日子がゲスト出演していた。キョンキョンはドラマ化された「センセイの鞄」で主人公のツキコさんを演じた。小説のイメージによく合っていたっけ。センセイの柄本明はイメージとは違っていたな。彼女のファンは皆、自分こそセンセイにピッタリと思って見たのかもしれない。

センセイとツキコさんは駅前の一杯飲み屋で隣りあせて以来、よくふたりで飲むようになったのだった。そうか、この小説は秋に読むのがいいかもしれない、日本酒をちびちびやりながら・・・。今週末はこの小説を読もう。


 


岩國錦帯橋 改稿

2008-09-04 | B 繰り返しの美学


岩國錦帯橋 (広重 諸國名所百選)

 日曜日(8月31日)、松本市島立の日本浮世絵博物館に行ってきたのですが、その際この絵はがきを買い求めました。繰り返しの美学な浮世絵に反応したというわけです。

以下改稿。

この錦帯橋を当時の日本人は美しいと認識していたのかどうか・・・。ふとそんなことを思いました。繰り返しの美は知性に訴えかけるものだと思うのですが、日本人の知覚する美、明治以前のそれは主として感性によって知覚したものだったと思うからです(などと根拠の示しようもないことを書いてしまいます)。

ヨーロッパの建築に昔から繰り返しが頻出するのはやはりそれが美しいとずっと昔から認識していたからでしょう。シンメトリックで人工的な庭園も然りです。彼らは知性によってそう認識していたのではないか・・・。

そう、知性によって美を知覚するヨーロッパ人、感性によって美を知覚する日本人という捉え方。それが結局、秩序のヨーロッパ、混沌の日本(アジア)という今日の都市構造にまで反映しているのではないか・・・。

日本の伝統的な建築や庭園は敢えて対称性を崩したりしています。明治になってヨーロッパからもたらされた建築、それを知性によって鑑賞するということもそのとき同時に学んだのではないか、とふと思ったのです。

繰り返しますが江戸までの日本人は知性によって建築を鑑賞することを知らなかった、あくまでも感性によって鑑賞していたのではないか、というのがにわかに浮かんだ私の仮説です。

繰り返しの美は知性によって知覚され、江戸以前の日本人にはその知性がなかった・・・。でも江戸以前の日本の建築にも繰り返しはいくらでもあるではないか、という指摘も当然あるでしょう。問題はそれを美しいと感じていたのかどうかです。繰り返しは建設の合理性に基づくものであって、そこに美を見いだしていたからではないのではないか。

待てよ・・・。

やはりそうでもなさそう。画家が絵を描く動機はやはり対象を美しいと感じるからでしょう。ならば、広重はこの錦帯橋を美しい!と感じて絵にしたのではないか・・・。それもやはり同じパターンの繰り返しに美を感じたのではないか・・・。

そうか、日本人だってとっくに繰り返しの美に気がついていたんだ・・・。繰り返しの美って知性でも感性でも知覚されるもの?

そもそも知性による知覚、感性による知覚ってどう違うのか。知性ってなんだ、感性ってなんだ。などというとりとめもないことを昨晩は考えていたのですが、それをそのまま文章にしてしまったので、論理的に話を展開することが出来ませんでした。

まあ、いいでしょう。論文を書こうというわけではないのですから、ときにはこんな思索?も。