透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

藤森探偵が解き明かす「建築史的モンダイ」

2008-09-26 | A 読書日記


 PR誌「ちくま」などの連載に書き下ろしを加えたのが藤森照信さんの『建築史的モンダイ』。今日、車内で読み終えてしまった。

全28編のうち「建築史的タテヨコ問題」が一番面白かった。建物の縦長と横長について取り上げていて**世界の宗教建築はことごとく縦長もしくは正方形になっているのに、どうして日本の場合、寺も神社も横長なのか。**というモンダイを解き明かしている。

教会建築については知識がないが、確かにキリスト教会は縦長だ。**聖なるものが建物の奥深くましますというのは宗教空間の本質にかなっているのである。**と藤森さんは説明する。

藤森さんによると仏教建築が横長になったのは中国に入ってからだそうで、中国に仏教以前からあった宗教施設は祭られる対象が(藤森さんは祀られるではなく、祭られるとしている)実在の人物であって、キリストのような絶対的、超越的な存在ではないとし、自分達と同じ人間を祭るのだから建物の形式は住宅なのだと説明している。

中国の宗教建築は住宅を基本としているので横長になったのだという。住宅が横長というのはよくよく考えると?ではあるが、なんとなく納得してしまう。 ヨーロッパでも縦長は教会だけで、役所を含め、世俗建築は古来、横長が基本だという。

藤森さんは日本の神社や寺院の本殿や本堂は横長だが建築群は縦配置だと、ちゃんと「奥性」を指摘している。

いろいろな建築史的モンダイについて、曖昧な要素を排除して明快に解き明かし、簡潔に説明しているが故に、あれ?本当かな?と思うところもあった。が、藤森探偵の謎解きは今回もなかなか見事だった。

繰り返しの美学 バルコニーを彩る花たち

2008-09-26 | B 繰り返しの美学


                   安曇野市穂高総合支所 080923

 人はヤマアラシのような、あるいはくりのいがのような存在なんですね。棘をまとっているということを意識しないで人に近づきすぎると相手を傷つけてしまったりします。でも近づかないと、相手のぬくもりを感じることができなくて寂しい・・・。相手との好ましい距離を知り、それを保つように努力することが大切なんですね。離れず、くっつかずという心理的な距離の保持、むずかしい課題ではありますが。

先日穂高でクリの木を見て、いがからヤマアラシを連想して、昔、そう30年以上も前に読んだ『山アラシのジレンマ』をふと思い出したことは既に書いた通りです。

その穂高で道祖神めぐりをしたとき、ここ安曇野市穂高総合支所(旧穂高町役場)の前を通りがかり、庁舎のバルコニーを彩る花たちを目にしました。花は美しいですし、繰り返しももちろん美しいです。花の繰り返しとなれば相乗効果で実に美しいです。観光地の庁舎に相応しい取り組みですね。観光地でなくてもこのような公的な空間を飾る配慮は是非したいですね、ヨーロッパの街並みのように。

ところで藤森照信さんの『建築史的モンダイ』ちくま新書を読み始めたところ、こんな一節が出てきました。

**建築の条件は、気恥ずかしさを一時棚上げして真正面から、〝美しいこと〟と言ってしまいたい。これではあまりに印象批評の度が過ぎるなら、〝視覚的な秩序があること〟と言いかえてもいいが、同じか。**

「視覚的な秩序」、繰り返しの美学はその最も分かりやすい例です。このことを私は繰り返し書いてきましたが、藤森さんがこのようにずばっと指摘しているのを知ってなんだかうれしくなりました。藤森さんの曖昧さを排除したこのような簡潔な指摘、それもユーモアをまじえた指摘を読むのは楽しいです。この本は週末に読了できそうですから、前稿で取り上げた『謎解きフェルメール』新潮社の読了が展覧会に間に合いそうです。