■ 川上弘美の『センセイの鞄』。手元の単行本の発行は2002年の2月、初版第11刷だ。初版第1刷が前年の6月だから、約8ヵ月後に読んだことになる。
川上作品は単行本が出るたびに早速購入して読んでいたはずだが、なぜ半年以上も後になったのか分からない。それにしてもその間で11刷りとは随分売れたんだ。その後文庫本で読んだのが2004年の9月のことだった。そして今回文庫本で再び読んだ。
前回までは川上弘美の本流から少し外れたところにある作品という印象だったが、今回の読後感は少し違っていた。これはストライクゾーンど真ん中の作品という印象だった。
高校の国語の教師だった松本春綱先生と生徒だった大町月子さんの淡い恋物語だが、ふたりの名前の表記がこれではこの作品の雰囲気から外れてしまう。
**正式には松本春綱先生であるが、センセイと私は呼ぶ。「先生」でもなく「せんせい」でもなく、カタカナで「センセイ」だ。**とこの物語は始まる。やはりセンセイとツキコさんのあわあわな恋物語と紹介しておかなければならないだろう。
川上弘美の小説の独特の雰囲気はこのように名前の表現にもこだわるところからもたちあがってくるように思う。**大町はさ、まだ結婚してないの**と花見のときに突然声をかけてきた中年はツキコさんの高校時代の同級生だった。
そう、ここはやはり苗字で「大町」が自分の経験に照らしてもリアリティがある。この中年「小島くん」ともツキコさんは飲みに出かけたりもする。高校時代の同級生の「女子」は「男子」を苗字にくんをつけて呼ぶ。「君」と「くん」とはやはりニュアンスが違うような気がするが説明できない。川上弘美ならきっとなるほど!な説明が出来るだろうが。
少し経ってから小島くんはツキコさんを「月子ちゃん」と呼んだりするが、このことについて**月子ちゃん、と小島孝が呼んだことに、わたしは気がつかないふうをよそおった。**と書いている。やはり川上弘美は名前の表現を意識しているのだ。
センセイとツキコさんの歳の差は30くらいだが、この位の差があってこんなにピュアな恋愛が出来たらいいだろうな、と中年オジサンは思いながらこの小説を読んだに違いない(と他人事のように書いておく)。
まだ若いから(前稿で老化の始まりを嘆いたのに・・・)あまりセンセイに感情移入は出来なかった。まあ、少しだけセンセイになりたいと思いながら読んだが。
この作家はお酒が好きなんだろう、自身が好きでないとお酒を飲む場面なんて上手く描けないと思う。
晩秋の夜にそれこそこたつでお酒を飲みながらこの作品をもう一度読みたいと思う。