■ 『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』辺見じゅん(文春文庫2021年23刷、単行本1989年)を昨夜(10日)読み終えた。よかった、この本と出合うことができて。これは読んでおくべき本だと思った。大宅壮一ノンフィクション賞と講談社ノンフィクション賞を受賞している。
目次の次に見開きで昭和21年当時の「ソ連領内の抑留日本人収容所(ラーゲリ)分布図」が載っている。広大なソ連領内の全域に収容所がプロットされている。収容所は1,200か所もあり(こんなにあったのか、と驚く)、抑留された日本人は60万人にものぼったそうだ。恥ずかしながら僕はこの本を読むまでこんなことも知らなかった。
1945年(昭和20年)8月敗戦、極寒のシベリア。収容所の劣悪な環境で餓えに苦しむ抑留者は過酷な労働を強いられる。多くが絶望する中、決して諦めることなく周囲の人たちに希望を与え続けた山本幡男さん。彼は亡くなった仲間の通夜の席で死を悼む歌を詠み、時にロシア人将校の監視をのがれて万葉集を仲間に講じ、句会も開き、俳句を講評するような教養人。彼は仲間たちの心の支えとなっていて、仲間を励まし続けた。みんなで、かならず生きて日本に帰ろう、と。
だが・・・、病魔が山本さんを襲う。喉頭癌に侵されるも治療を受けることができない。死期を自覚した彼は仲間のすすめに応じて遺書を書く。薄れかけてきている視力、激痛。最後の力を尽くして家族に宛てて書かれた遺書は4でノート15頁、4,500字にも及ぶ。引用は控えるが遺書の内容からも山本幡男という人の凄さが分かる。1954年(昭和29年)の8月、山本さんは誰にも看取られず息を引き取る。昼間だったため、収容所の仲間たちは作業に出ていたのだ。
彼を慕う仲間たちは「遺書を必ず家族に届ける」と強く誓う。だが、文字を書き残すことはスパイ行為とみなされてしまう。遺書を書き写すこともままならない。遺書を隠し持っていて、発見されれば収容所へ逆戻りとなり帰国の道は完全に断たれてしまう・・・。彼らが採った方法は遺書の暗記。分担して一字一句漏らさず正確に暗記するという方法。
**(前略)人類の幸福を増進するといふ進歩的な思想を忘れてはならぬ。偏頗で矯激な思想に迷ってはならぬ。(後略)**(231頁)これは子どもたちに宛てた遺書だが、難しい言葉で綴られている。6人かな、分担したとはいえ暗記するのは大変だったのではないかと思う。
拘留者たちも徐々に帰国していくが、山本さんがいた収容所の仲間たちの帰国の願いは叶わない・・・。時は流れ、1956年(昭和31年)12月。戦争に負けてから11年も経って、遺書を暗記した仲間たちは大勢の帰還者と共に復員船の興安丸から降ろされたタラップを登る。出帆の汽笛が鳴り、興安丸はナホトカの岸壁を離れる・・・。帰国、雪降る舞鶴。
その後、山本幡男さんの奥さんのところに、記憶をもとに書き起こされた遺書が届けられる。居所を訪ねて直接手渡される遺書、郵送されてくる遺書。最後に遺書が山本家に届けられたのは1987年(昭和62年)の夏のことだった、という。
終戦後にこんなドラマがあったということは全く知らなかった。それにしても戦争という最悪の愚行によって、命を失った人たちは無念だっただろう。遺書を読んでいて、つらくて、悲しくて涙がでた。
このノンフィクションは映画化され、今年の年末に公開されるという。