透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

松本あめ市

2007-01-13 | A あれこれ

今年は伝統行事に注目、ということで「松本あめ市」に出かけてみた。



△ 「松本あめ市」の旗、繰り返しの美学。



△ 市内を流れる女鳥羽川に架かる橋の上にも飴やだるまを売る店が出ていた。この先の縄手通りも大勢の人でにぎわっていた。



△ これが有名な「牛つなぎ石」。 石の隣に設置されている説明看板で「あめ市」をにわか勉強。以下説明文の要約。

永禄11年(1568年)1月11日、本町と伊勢町との辻角に建つ「牛つなぎ石」に塩を積んだ牛車がたどり着いた。越後の武将上杉謙信公が義侠心により送った塩だ。当時信濃は甲斐と共に武田領。武田方と敵対していた今川、北条方が太平洋岸の南塩の道筋を封じたため、民人が難渋していた。これを知った謙信公、武田方とは敵対関係にありながら、日本海岸の北塩を糸魚川(塩の道)経由で松本方面に送った。このことを記念して上杉謙信公を讃え、塩に対する感謝の日として、塩市(初市)の日となったと伝えられている。明治38年に塩は国の専売品となった。当時松本は日本一の飴の生産地で、市内の飴屋さんが塩俵に因んだ飴をつくった。爾来「あめ市」として定着した。

謙信が塩を送ったという史実は見つからないらしい・・・。この手の言い伝えは後世の人たちによってもっともらしく創作されることがあるとも聞く。 でもそれで別にかまわないと思う。 

▽ 市内の店先で繭玉飾りも見かけたので、パチリ。


 


「中野本町の家」

2007-01-13 | A あれこれ



昨年末に書店に注文していた本が届いた。『中野本町の家』 住まい学大系090 後藤暢子他  

この家は伊東豊雄さんのお姉さんである後藤さんの依頼によって設計された。伊東さん34、5歳のときの作品で実質的なデビュー作と位置づけてもいいだろう。後藤さんのご主人は1年半程の入院生活の末に亡くなった。その直後に建てられた家。後藤さんはふたりの娘さんと共にこの家で約20年間生活した。

開口部の極端に少ない閉鎖的な「家」、スリット状の開口部から入る強い光を計画したのは何故か・・・、それは決して伊東さんの考えだけによるものではなかったことを後藤さんが語っている。

どのようにこの「家」で生活したのか、この「家」からどのような影響を受けたのか、三人がそれぞれインタビューで答えている。この家は既に解体されているのだが、なぜ解体してしまったのか、その理由も語られている。

設計者の伊東さんの「住宅の死をめぐって」という長文も収録されていて、三人のインタビュー記事と併読すると興味深い。

水はその形を容器に規定される。住宅も生活のための容器といわれる。三人は生活をこの「家」に規定されて来たのだ。拘束されて来たのだ。

建築は怖い・・・。


町名は文化だ

2007-01-10 | D 新聞を読んで



昨日(0109)の信濃毎日新聞朝刊の一面

 以前、町名は文化、と書いたような気がする。全国各地で歴史的な町名がどこにでもあるような画一的な町名に改められた。なぜ町名を改めなくてはならなかったのか理由がよく分からない。上田市で旧町名を復活させようという動きがあるとこの記事が報じている。全国的にもまだ前例が少ないようだ。

一昨日は生坂村で復活した伝統行事「紙御幣」のことが載っていた。今年は伝統文化に関する新聞記事に注目してみたい。

伝統文化をそう簡単に捨て去ってしまってはいけない、このような伝統文化復活の試みを好ましく思う。

この記事を第一面トップに配した編集者に拍手!


 

 


「妖精が舞い下りる夜」

2007-01-09 | A 読書日記



小川洋子さんの作品では、第一回本屋大賞を受賞し映画にもなった『博士の愛した数式』がいちばん読まれていると思う。

手元の『薬指の標本』新潮文庫についている帯にはフランスで映画化決定!と記されている。

小川さんの小説の特徴のひとつは海外の作品のような雰囲気が漂っているところだろう(その意味では「博士の愛した数式」は本流から外れている)。だから『薬指の標本』がフランスで映画化、ということに違和感は感じない。

小川さんの作品で文庫化されたものはほとんど読んでいるが、先日書店で『妖精が舞い下りる夜』角川文庫を見つけた。このエッセイは未読だった。

小川さんが阪神ファンということは以前から知っていたが(「博士の愛した数式」にも阪神のことや江夏の背番号のことが出てくる)、このエッセイにも家族そろって阪神ファン、ということが出てくる。

**巨人戦。テレビをつけたら、いきなり六対〇。すぐにスイッチを切る**  **わたしの育った家では、団欒といえば、テレビのナイター観戦だったし、朝はラジオの朝日放送で、中村鋭一さんの『六甲おろし』を聞きながらごはんを食べたし、(後略)** 

阪神ファンにおすすめの一冊だ。

書評も何篇か載っている。金井美恵子の『愛の生活』新潮文庫 は小川さんが小説を書きたいと願うようになった作品だという。この小説は未読、タイトルすら知らなかった、書店で探してみよう。

ところで映画『薬指の標本』は既に完成し、日本でも公開されたらしい。出来れば観たいが地方でも公開されるのだろうか。


新聞が伝える伝統行事

2007-01-08 | D 新聞を読んで

 今日の朝刊(信濃毎日新聞 070108)に昨日行なわれた長野県内各地の「伝統行事」がいくつか紹介されていた。 **で引用範囲を示す。

**松本市内で七日、正月飾りなどを燃やして無病息災を祈る伝統行事「三九郎」が行なわれた。**  前稿で私も書いた三九郎の紹介記事。市内では夕方暗くなってから燃やす。昼間燃やすより「火祭り」としての演出効果があるだろう。

**(前略)健康と豊作を願う小正月の行事「繭玉作り」をした。 養蚕の衰退で行なわれなくなった伝統行事を伝えようと二〇〇〇年から毎年開いている。**  伊那市の「みはらしファーム」というところで行なわれている行事の紹介。私も繭玉飾りを見なくなって久しい。

**長野市大岡で恒例の「道祖神祭り」 伝統行事に託す願い**  県の無形民俗文化財に指定されている行事。毎年写真付きで紹介されるのでよく知られている、と思う。注連縄でつくる神様の顔はユーモラスで素朴。記事によると長野市立博物館ではこの伝統行事を広く知って欲しいと見学会を開催したそうだ。

**よみがえった「紙御幣(かみおんべ)」生坂で64年ぶり  地域の伝統行事をなくしてはいけない―とかつての「紙御幣」を知るお年寄りらが企画した。**  戦争で人手不足になったことなどから昭和18年を最後に中断していた行事の復活! こういう記事を読むとほっとする、よかったなと思う。

お年寄りと子供たちが一緒になってタバコの葉を表現した高さ10mの紙御幣を作って吹雪のなか(そう、昨日は私の地区でも吹雪のなかで三九郎が行なわれた)で立てたという。五色の飾りがきれいだ。

この紙御幣はお年寄りの記憶だけを頼りに復元されたそうだ。「完成するまで不安だった」とのコメントが紹介されている。14日まで紙御幣は立てられているとのことだ。ほとんどの人にとって初めての行事。見に行きたいとも思うがこの雪道では・・・。

大岡は旧大岡村、長野市に合併した。生坂は「平成の大合併」でも合併しなかった小さな村。自治体のシステムが変わっても変わらなくても伝統行事が地域で守られ、継承されていくことを願う。 


 


伝統行事の継承

2007-01-07 | A あれこれ



○ 冬のフォトアルバム 2 (070107)
今朝取り外した松飾を近所の小学生達が集めていきました。三九郎、地方によって呼び方がそれぞれ異なると思いますが、松本地方では松飾やだるまを集めて焼く行事をこう呼んでいます。

昨日からの雪、白くなった田んぼに組み上げられた三九郎、小学生達が火を点けると強風にあおられて激しく燃え上がりました。

 *****

正月、箱根駅伝をテレビで見ました。一本の襷を選手達が必死の思いでつないでいく。たった数十秒の差で襷を手渡すことが出来なかった選手の落胆。

私達は駅伝の襷のように日本の伝統文化を次世代に引き継ごうと必死に努力してきたのだろうか・・・。伝統的な文化の継承の大切さと難しさ、箱根駅伝を見ながらふとそんなことを考えてしまいました。

私の住む鄙びた山里では小学生が少なくなって、最近ではあまり大きな三九郎を組むことがなくなりました。いつ頃始まった行事なのか知りませんが、いつまでも続けていきたいものです。松飾をゴミとして出すわけにはいきませんし・・・。


デザインの地方性 

2007-01-07 | A あれこれ

 白川郷 荻町 197908 

■ 民家 昔の記録、今年最初は合掌造りの民家の集落。

http://shirakawa-go.gr.jp/yado/yosobe/yosobe.htm

↑ 遠い記憶を頼りに当時泊まった民宿を探してみました。近くにお寺があったことを覚えています。たぶんここではないかと思いますが、定かではありません。

昔の民家の集落は日本の風景によく似合います。地から生えるように建つ民家が気候風土に適していることは理屈ではなく、感覚的に理解できるような気がします。

いきなり民家をきのこに喩えたら、?でしょうね。きのこは生育条件が調った場所でしか育ちません。特にその条件が厳しい。昔の民家は地域によってそれぞれ意匠的な特徴が異なり興味が尽きないのですが、その地域の気候条件や地形的な条件、使う材料(例えば屋根を葺く材料)の入手条件といった民家を取り巻く外的条件と、例えば養蚕をするとか馬を飼っているとかいうようなその民家での生活条件、即ち内的条件との絶妙なバランスの上に成立しているわけで、そのような成立条件や外観のイメージから、きのこに喩えることができるな、と思うのです。

民家が風景によく似合う、ということに敢えて理屈をつければ、こんなことになるのでしょうか。

最近では全国一律、同じようなデザインの住宅が多くなりました。生育条件の合わない土地で無理をしてきのこを育てているようなものではないか、そう思います。

それぞれの地域に相応しいデザインの必要性が指摘されるようになりました。そのヒントは長い歴史を経てきた先達の知恵の結晶に見つけることができる、そう思います。

このような指摘も「地方の時代」という社会的な流れの反映でしょうか。長野駅も松本駅も昔の駅舎のデザインの方がよかったという指摘が単にノスタルジーに由来するものとは思えません。全国、全世界同じデザインという時代は終わりつつある(あるいは終った)ということは多くの人が指摘しています。

現代建築で地方性を考えることはなかなか難しいのですが、これからますます重要性が増すテーマであることは間違いなさそうです、と書いて今回は終り。

*先の外的条件には民家を建てたり、屋根の葺き替えなどに地元の住民がどの程度かかわることができるかといった社会的な条件(「結」などの制度)を加えることもできると思いますがここではとり上げませんでした。


繰り返しの美学

2007-01-06 | B 繰り返しの美学


今年初めての「繰り返しの美学」

まだ松の内ですから注連縄の写真のアップもOKですね。伝統的な正月の飾りですが、これも「繰り返しの美学」と捉えることが出来そうです。コードペンダントと淡萌黄(うすもえぎ)色の旗は「007」を観に出かけたときに撮った写真。

「繰り返しの美学」は、ものを捉えるひとつの観点に過ぎませんが、このようにアングルを揃えて写真を撮ると、その観点が明確に示せるような気がします。

「となり町戦争」

2007-01-05 | A 読書日記



直木賞の候補作に三崎亜記の『失われた町』が選ばれた。この作品は友人にメールで紹介してもらった。

年末年始の読書、今回はこの作家の『となり町戦争』。集英社文庫に収められたのを機に読んでみた。

ある日突然となり町と戦争が始まる。戦火が上がるわけでもなく、市民は平穏な生活を続ける。だが町の公報紙には戦死者の数が載る。その数は次第に増えて行く・・・。見えない戦争。

**僕たちは、自覚のないままに、まわりまわって誰かの血の上に安住し、誰かの死の上に地歩を築いているのだ。ただそれを、自覚しているのかどうか、それが自分の眼の前で起こっているかどうか。それだけの違いなのではなかろうか。**

**戦争は、日常と切り離された対極にあるのではなく、日常の延長線上にあるのだ。**

小説のなかで語られるこの作家の戦争観。テレビが報じる「リアルな戦争」、それはお笑い番組と同様に一つのコンテンツに過ぎないのか・・・。中東では戦争がいまも続いている。イラクでは民間人が既に5万人以上戦死したという。そのことを全く意識もせずに続けられる僕たちの日常生活。先に示した三崎亜記の指摘はこの現実を突いて鋭い。

戦争体験のない作家が描いた戦争、この作品をリアルだと捉える感性が読者にあるかどうか・・・。

 


「雪国」

2007-01-04 | A 読書日記



正月、午後からビール。 アルコールなブログ。

「雪国」を読みたい、ふとそう思った。

有名な書き出しで始まるこの小説は **踏みこたえて目を上げたとたん、さあと音を立てて天の河が島村のなかへ流れ落ちるようであった。**  と終る。

この小説を初めて読んだのは高校一年生のころ、当時の文庫本は文字が細かくて読みにくい。書店で新たに買い求めた。再読してみると、この小説、なんだかエッチ。
 アルコールなブログだからね。

**「こいつが一番よく君を覚えていたよ。」と、人差指だけ伸した左手の握り拳を、いきなり女の目の前に突きつけた。**

中高生がこんなくだりを読んで??だからといって、国語の先生が若い女性だったら解説なんかお願いしたらダメ。大人になって再読して気がつけばいいんだよ、川端康成ってスケベなオッサンだったんだって。

**駒子はそっと掌を胸へやって、「片方が大きくなったの。」「馬鹿、その人の癖だね、一方ばかり」** 

**細く高い鼻が少し寂しいけれども、その下に小さくつぼんだ唇はまことに美しい蛭(ひる)の輪のように伸び縮みがなめらかで、(後略)** 

あの鳥のようにするどい目で女性を実に詳細に観察していたんだな。

**人物は透明のはかなさで、風景は夕闇のおぼろげな流れで、その二つが溶け合いながらこの世ならぬ象徴の世界を描いていた。**

島村が雪国に向かう汽車のなかで窓に写る葉子を夕景色に重ねて観察するシーンは印象的。

**紅葉の銹色(さびいろ)が日毎に暗くなっていった遠い山は、初雪であざやかに生きかえった。**

**裸の天の河は夜の大地を素肌で巻こうとして、直ぐそこに降りて来ている。**

さすが、単なるスケベなオッサンではないよな、この感性、この描写! この際『眠れる美女』も再読してみるか。

ノーベル賞作家の作品、アルコールしながら読むなんてフキンシン?


007

2007-01-04 | E 週末には映画を観よう

今年は2007年。2007、2007、・・・  そうか、007!

007 カジノ・ロワイヤル」が公開中だ。「硫黄島からの手紙」だっていい映画なんだろうけれど、今年最初に観る映画は「007」だよ、なんてったって。久しぶりの007、今回が21作目だそうだ。最初の作品の公開は40年以上も前、ということだから、このシリーズも随分長い。

ストーリーやボンド・ガールの顔は忘れたけれど、タイトルだけは覚えているなぁ。「ドクターノオ」「ロシアより愛をこめて」「007は二度死ぬ」「死ぬのは奴らだ」「ムーンレイカー」。特に前半の作品のタイトルは覚えている。「女王陛下の007」っていうタイトルも思い出した。ジェームズ・ボンドといえばショーンコネリー、ロジャームーア。中年ボンド。

今回、ボンドは随分若返ってダニエル・クレイグ。なんでも「ミュンヘン」に出ていたらしいけれど観ていないから、知らない。若い頃のスティーブ・マックイーンに似ているって、あるブログで読んだけれど、なるほど確かにそんな雰囲気だった。

「モンテネグロ」ってどこにあったっけ?? 脳内検索してもヒットしなかった。名前だけは知っていたけれど場所が分からない・・・。帰宅してから世界地図で調べてみた。「ここか」、地名をマークしてある。調べたのはオリンピックの時かな。地図に国境線の表示がない。どうやらごく最近できた国らしい。

映画のストーリー?、ンなもんトレースしても意味無い。鉄骨の建て方をしている工事現場でのシンジラレナーイ、アクションシーンから始まる。いきなりクライマックス。カジノ・ロワイヤルでとんでもない大金をかけたポーカー、映画だから最後には勝つことが分かっていても、はらはらする賭。

ラストにはベネチアが登場。そうあの水の都。ビルを水没させるなんて考えたね、いいアイデア。あれれ、ボンド・ガールが死んじゃうのか?

これは大人の贅沢な娯楽映画。正月映画はやはりこうでなくっちゃね。


 


「快適都市空間をつくる」

2007-01-03 | A 読書日記

 
善光寺の参道で見かけた松飾(070102)

■「繰り返しの美学」という概念は対象を建築から街並み・都市へと広げても適用できる、と考えている。昨日、フィレンツェからの中継番組を見ていて「美の都」は同じデザインコードが使われた建築の繰り返しによって成立しているのだと改めて感じた。ゆるやかな統一、秩序によって創り出される都市の美。

『快適都市空間をつくる』青木仁/中公新書  

最近このての本を手にするようになった。「快適都市空間」は安全性、利便性などが求められる総合的な概念だが、「美しさ」も欠くことが出来ない要素だ。

著者は、**(前略)欧・米・日という類似の先進諸国の間に、なぜこれほどの生活環境の差、都市空間の質の差が存在するのだろうか?**という問いの答えをいくつか示している。

○地震や台風といった天災が起こりやすい上に、建物の構造が木造であるという性格から火災に弱く、耐久性に乏しい。(中略)都市・建築ストックの蓄積が難しかったこと。
○東(南)アジアの地域性として、静的な永続的秩序の固定よりは、その時々の活力に応じた更新を可能にする融通無碍さを好む気風が強いこと。
○(前略)そもそも富を積み上げるよりは、富を清算してしまうことに価値観を見いだす風潮があったこと。

私はこの説明だけで「なるほど」と納得してしまったが、著者は更に続けて日本が明治維新以来、国富のほとんどを国家開発のために注ぎ込んできたこと、そこでは生活は二の次、生産優先の論理で全てが計画されたこと、その結果として都市の生活空間が無視されてきたことを挙げている。

この本の前半で著者はいかに日本の生活空間が「ひどい」か繰り返し指摘し、後半では他国の美しい都市の事例もとり上げている。そこにはロンドンの美しい街並みのことも紹介されているが、その部分の小見出しは「環境装置としての樹木の重要性(建物と緑と道の関わり)」となっていて、先日(061230)私が書いた「都市にもっと「緑」を!」と趣旨が一致している。

この著者は最後の章で「快適な生活空間創造のための五つの提案」をして、論考を終えている。

総じて中公新書は中身が濃いと思う、この本も例外ではなかった。 

(注)街並みは町並みとも表記されます。私は道に沿って連なる建築によって構成されている場合を「街並み」、俯瞰することで捉えることができるような建築の平面的な連なりを「町並み」と、両者を区別することにしています。


「秋の街」 

2007-01-02 | A 読書日記

 

ここ数年善光寺へ初詣に出かけています。

昨年末から読み始めた『秋の街』吉村昭/中公文庫を往復の高速バスで読み終えました。吉村さんは闘病生活の末、延命治療を拒否し、自らの意志で人生を閉じました。

吉村さんの小説のテーマを一つに絞ることは出来ませんが、主人公が「自らの意志」で人生を切り拓き、強く生きる姿を描いた作品を何作か読みました。

『秋の街』には表題作ほか六編の短篇が収録されています。「花曇り」は、母にはなれたが妻にはなれなかった(昔流行った流行歌の歌詞のようですが)女性を小学生の息子 洋一の視点から描いた作品です。

父親はときどきふたりの住むマンションにやってきます。ある夜、洋一は父親が白いヘルメットに白衣をつけた三人の男に担架で運ばれてマンションから出て行くのを見ます。

葬儀に出かける母子(おやこ)、式には参列せず電柱の影から霊柩車を見送るふたり・・・。

「マンションを売って、ほかの町に住みたいのよ。よさそうな学校のある町をえらぶからね」

一人の息子と共に強く生きていこうとする女性、やはり吉村氏はこのような人を描くのが上手い、そう思います。


「ウェブ人間論」

2007-01-02 | A 読書日記

 

『ウェブ進化論』ちくま新書の梅田望夫と『文明の憂鬱』(文明批評エッセイ)新潮文庫の平野啓一郎、ふたりのウェブ社会をめぐる対談。

梅田さんはウェブビジネスを展開しているIT分野の知的リーダー。一方平野さんは作家、『日蝕』で芥川賞を受賞している。『顔のない裸体たち』は未読だが、ネット上に自分の裸体をさらす女性が登場する作品ではなかったか。全く違う立場からネット社会に関心を寄せる二人の対談は興味深いものだった。

リアル(現実)社会とネット社会の関係について、ブログを始めてから私も考えるようになった。リアル社会での知人・友人関係をそのままネット社会に持ち込んでいる面もある、つまりリアル社会と連続するネット社会という位置付け。

それと同時にリアル社会から切り離されたネット社会、ネット上にのみ築かれる他人との関係の意義もなんとなく分かるような気がしてきている。ふたりの間でこの辺りの議論も行なわれている。

また、グーグルを中心に進行中の壮大なプロジェクト、世界中の本を「全部」ネット上に公開しようという試みがもたらす影響、著作権の問題も含めて「本」はどうなるのかといったことに関する話題等々。

キッチリと相手の発言を踏まえて自分の考えを述べるというふたりの討論(こういう討論は少ない、相手の発言に関係なく持論を展開するだけというものが大半ではないか)、東京で二度に分けて行なわれたそうだが、それぞれ延々八時間以上にも及んだという。実に濃密な内容、年の初めに相応しい良書だった。


謹賀新年 2007

2007-01-01 | A 読書日記





『アール・デコの館』写真 増田彰久 文 藤森照信/ちくま文庫
『建築のはじまりに向かって』内藤廣/王国社
『まちづくりと景観』田村明/岩波新書
『しをんのしおり』三浦しをん/新潮文庫
『天狗争乱』吉村昭/新潮文庫

『お伽草子・新訳諸国噺』太宰治/岩波文庫
『メダカの花嫁学校』阿川佐和子/文春文庫
『デザインの輪郭』深澤直人/TOTO出版
『とびはねて町を行く』森まゆみ/集英社文庫
『ウルトラ・ダラー』手嶋龍一/新潮社

『ごくらくちんみ』杉浦日向子/新潮文庫
『ざらざら』川上弘美/マガジンハウス
『犬のしっぽを撫でながら』小川洋子/集英社
『街並みの美学』芦原義信/岩波書店
『すべての雲は銀の・・・』村山由佳/講談社文庫


 昨年は「透明タペストリー」工房へお越しいただきまして
 ありがとうございました。

 今年もいろいろなタペストリーを織り上げようと思います。
 よろしくお願い致します。

                     2007年1月1日