透明タペストリー

本や建築、火の見櫓、マンホール蓋など様々なものを素材に織り上げるタペストリー

続・鉄腕アトムの功績とは

2007-08-07 | A あれこれ
 前稿のラストは、なんともお疲れモードな結論だった。実際疲れているのかも。ナポレオンじゃないんだから睡眠時間をきちんととらなくては・・・。

リアルなCG完成予想図(パース)に満足してしまって具現化しようという意欲が薄れることがあるかもしれないなんて・・・、ンナことあるわけない。

前稿の論理の流れだとロボットの場合と同様に建築設計の場合もリアルな到達点が示されたのだからその実現に向けて努力する、という結論でないと。

薄い庇をどうやって、フレームの目立たないサッシのディテールをどうやって実現しよう・・・。解決すべき技術的な課題までパースには示されている。それをクリアしようと努力しなくてはダメジャン。

■ 今夜は11時からNHK「サラリーマンNEO」の女子アナコントを見よう!

鉄腕アトムの功績とは

2007-08-06 | A あれこれ

 最近スポーツ選手はメンタルトレーニングの一環として、競技での最高の状態をイメージする、ということをするそうですね。例えばマラソン選手は自分がトップでゴールする瞬間をイメージするというわけです。そうすることがよい結果をもたらすことに繋がるのでしょう。

ところで、日本はロボット工学の理論面だけでなくの実用化の面でも世界のトップクラスにある、ということはよく知られています。ホンダやソニーのロボットがマスコミを賑わすこともしばしばあります(今どちらのロボットも名前が思い出せません)。

日本がロボット開発において世界の最先端にある、そのことに鉄腕アトムの功績が大きいことはなにも私が初めて指摘するわけではありません。既に指摘さていることです。

多くの人が指摘するように、鉄腕アトムに親しんだことがロボット開発を志す契機となったという人が多いことも注目すべきだと思いますが、私はアトムがロボットの到達点、究極の姿をビジュアルに示しているということのほうが大きいと考えています(アトムより鉄人28号の方がロボットの望ましい姿だという見解もあるようですが、今回はそのことにはふれません)。ロボット開発の目標とする姿が見えている、先に示したスポーツ選手の場合とよく似ています。

最終的な形を具体的にイメージできること、ロボット開発に限らずあらゆる創造行為に共通する重要なポイントといえるでしょう。もちろん建築設計にも当て嵌まります。

設計者は最終的な姿をかなり初期の段階でイメージします。その先の設計は諸条件を整えてそのイメージに収斂させる行為といってもいいかも知れません。

建築の場合には「完成予想図」によって最終的な姿をビジュアルに提示します。ラフなスケッチによってイメージを表現できることは設計者に求められる必須の能力ですが、リアルに表現することはそれを専門とする人たちに委ねられることが一般的です。

以前は手描きの完成予想図(パース)が主流でしたが最近はCGの方が多くなりました。外壁材料などの質感のリアルな表現、敷地周辺の写真との合成などによってまるで竣工写真のようなパースができます。

仕事のことに関しては守秘義務がありますから、具体的には書きませんが、最近リアルなパースを見ました。パースに満足してしまって建築として具現化しようという意欲が低下することもあるのではないか、ふとそんなことを思いました。


ストライプな畑に咲くパラソル

2007-08-05 | A あれこれ


 
夏のフォトアルバム 3 070805

「ストライプな畑に咲くパラソル」


「地球(ほし)の旅人」@松本市美術館

菊池哲夫さん、前川貴行さん、林明輝さん、それに地元松本出身の穂刈三寿雄さん、4人の写真家の作品展を観た。

自然は実に多様な表情を見せる。自然に魅せられた写真家たち、それぞれの個性が捉えたその表情。特に私が魅了されたのは菊地哲夫さんの夜の山をテーマにした作品。

・月明かりに浮かび上がる山々、遠くに見える人間の営みの明かり。
・満天の星たちの円を描く軌跡。
・静寂な夜の世界。

写真は空間と時間を切り取る芸術、そしてそこには撮る人の感性と知性がストレートに表れる、と改めて思った。この作品展は今日が最終日、見逃さなくてよかった。


 


そろそろ帰り仕度

2007-08-05 | A 読書日記



 前稿の「消去の美学」の実践、写真をギリギリまでトリミング。グラフィカルな表現になった。『ねじまき鳥クロニクル』いよいよ第3部。村上春樹の長編小説を巡る旅も最後となった。

先日、満月の表面のパターンがうさぎに見えるのは、そういう先入観で見るからだ、と書いた。

小説を読むのも同じで村上春樹の小説も実はそのように先入観をもって読んでいるのだ、と書いた。そのことがどうもよく分からないと訊かれてしまったので少し補足。

小説も先入観をもって読み始める。これは青春小説だとか、恋愛小説だとかいうように、特定のジャンルというかテーマに読む前から位置付けている。ただ村上春樹の小説の場合は、そのテーマが読み手によって様々、ひとつに特定されない。多様な解釈が可能だ。そこが魅力といえば魅力なんだろう。その多様性が、海外でも評価される一因ではないか、と思う。誰でも作品を通じて自分を語りたいもの、その点において村上作品は好都合といえはしないか。

文庫本には解説がつきものだが彼の作品の場合にはそれが無い。読者に先入観を与えないためなのかどうなのか、とにかく無い。

「自己喪失とその回復」がテーマとも聞くが全ての作品をそのように括ることはできないだろう。彼の小説についてはいろんな解説本が書店に並んでいるが、敢えてそれらを読むことはしなかった。この小説を読み終えたら、少し読んでみよう。


私の好きな絵

2007-08-05 | A あれこれ


■ 先日 東京のブリヂストン美術館で買い求めた絵はがき。
「テラスの広告」という佐伯祐三の作品で1927年の作だと印されている。

抽象画のような雰囲気が漂うこの絵がブリヂストン美術館の展示作品の中で一番気に入った。ミロやカンディンスキー、ビュッフェなどの絵が好きだから自分がこの絵を気に入ったというのもよく分かる。

ところで、絵画などをとり上げているブログには鮮明な絵がよく載っているが、あの画像データはどのようにしてつくっているんだろう、と常々不思議に思っていた。私は専ら写真に撮ってアップしているが、今回は試しに絵はがきをスキャニング、そのデータを加工してみた。

そうだ、この手法を使えば例えば手書きの年賀状だって載せることができる(まだ先のことだが)。手間がかかるから頻繁にできる訳ではないが。

消去の美学

2007-08-05 | A あれこれ



  Less is more. ドイツの建築家ミース・ファン・デル・ローエのこのことばは「白の建築」の美の本質を突いている。単純なものほどより多くを語る。それは「消去の美学」と表現してもいいかもしれない。消し去ることによって浮かび上がってくる本質的な美の世界。茶室、生け花・・・日本の美は「消去の美学」にその本質があるのではないか。

床の間に生けた一輪の花を際立たせるために庭の花を全て摘み取ってしまったのは確か利休。千利休を描いた映画にそんなシーンが登場したような記憶がある。

茶室、八畳から六畳、四畳半、三畳、二畳、そして一畳。消し去って消し去って最後に残ったたった一畳、究極の茶室。

床の間、その床面を消し去って壁だけを残した壁床。そこに生ける花も一輪、花の美しさが際立つ。

庭、その構成要素となる庭木を消し去って、最後に残った砂と石だけの庭。

Less is more. そこに日本の伝統的な美の本質があるような気がする。

昨晩の宴席で撮った写真。切り取っても、切り取ってもその人の雰囲気が漂う。


 


ワインではなく建築の赤と白

2007-08-03 | A あれこれ


■ 「赤い建築」秋野不矩美術館 藤森照信 (051112)


■ 「白い建築」金沢21世紀美術館 妹島和世(050723)

 藤森照信さんの定義を再度書いておく。

赤派とは「もの」としての建築の実在性を求める建築家のこと、白派とは抽象性を求める建築家のこと。藤森さんはこのように明快に建築家を分けてみせた。

この際、赤派の作品を「赤い建築」、白派の作品を「白い建築」と呼ぼうというわけだ。それぞれの分かりやすい代表的な実例を載せておく。

赤派の代表、藤森さんの「赤い美術館」がフリーハンドな線・面で構成されているということ、そして白派の代表、妹島さんの「白い美術館」は実際に白くて幾何学的な構成ということの意味というか雰囲気が写真で分かる。

赤派の祖がル・コルビュジエ、白派の祖がミースだと藤森さんは指摘している。ミースが「白」というのは実によく分かる。だが、コルビュジエは最初から「赤」ではなかった。サヴォア邸はコルビュジエが40歳位の時の作品だが、これは四角い宇宙船で「白」。実際に白い建築だ。一方ロンシャン教会、これは「きのこ」、晩年の作品で間違いなく「赤」。

ル・コルビュジエははじめは白かった。それがいつ頃赤に転向したのだろう・・・。それを知りたい。森美術館で現在開催中の展覧会で確認できそうだ。来月24日までのこの展覧会、会期中に出かけたい。


 


既知のものしか見えない

2007-08-02 | A あれこれ



 以前、私は「知らないことは見えない」とこのブログに書きました。あらかじめ見るべきものを用意しているんですね先入観によって見る、といってもいいかもしれません。

ケプラーが惑星の運動法則を発見できたのも、神様は美しくてシンプルなものをつくったはず、それは惑星の運動にも当て嵌まるはずだ、という先入観をもって観察したからだという指摘を昔何かで読んだ記憶があります。

しばらく前にとり上げたこの『生物と無生物のあいだ』にも同様の指摘があります。

第7章「チャンスは、準備された心に降り立つ」は次のような書き出しです。**訓練をつんだ医者は、胸部X線写真を眺めただけで、そこにわずかな結核の手がかりやあるいは早期ガンを疑うに足る陰影を認めることができる。(中略)実は、医者がX線写真をライトにかざすとき、彼が診ているものは、胸部の映像というよりはむしろ彼らの心の内にあるあらかじめ用意されている「理論」なのである。**

知らないことは見えない・・・、エスキモーは雪原の状態を何十種類にも区別することができるそうですが、それだけのデータを持ち合わせているってことなんですね。

脳が未知のものを認知するときはこのように既知のものに照らし合わせているんですね。要するに「未知との遭遇」を「既知との遭遇」に置き換えようとするわけです。初めて会う人の顔を認知するときも、脳は一所懸命既存のデータを参照して、目はこれ、鼻はこれ、口はこれ、顔の輪郭はこれ、というように既存のデータに帰着させるわけです。そう、ちょうど、犯人探しのためにモンタージュ写真をつくるときと同じ行為を脳がしているわけです。

外国人の顔はみな同じに見える、というのも理解できます。極めて少ないデータしか持ち合わせていないわけですから、いろんな顔が同じデータに帰着されてしまうんですね。

未知を嫌う脳は月の陰影がつくる模様も既知の何かに帰着させようとします。結果、うさぎだったり、カニだったり、本を読む人などに見えるわけですね。あれはうさぎだという先入観で見るからうさぎに見える、と理解してもよさそうです。

小説を読むのも同じ。村上春樹の小説も実はそのように先入観をもって読んでいるんですね。その先入観にうまく合致していたものを好きだと評価することになる、と理解してよさそうです。

『ねじまき鳥クロニクル』を読了したら、彼の長編小説で好きな作品を挙げるつもりですが、それもこのようなことに基づく評価ということなんです、きっと。


 


7月に登場した本たち

2007-08-01 | A ブックレビュー


7月のブックレビュー(070801)

 今日から8月、関東甲信地方が梅雨明けした。

『複合汚染』も『五重塔』も再読したわけではない。ただブログでとり上げただけだから、7月は村上春樹しか読んでいないことになる。

村上春樹の小説に登場する主人公「僕」はビールをよく飲む。スパゲッティをよく食べる。女の子と頻繁に(でもないか)セックスする。そして体操をしたりと意外にも健康的な生活をしている。

現在『ねじまき鳥クロニクル』新潮文庫 第2部の終盤。