春のフォトアルバム 松本城にて 撮影日150416 朝
■ 今朝、カメラを持って自転車で松本城へ出かけた。桜は見ごろを終え、散り始めていた。烏城とも呼ばれる黒と白、モノトーンの松本城にあって、月見櫓の朱塗りの手すりが効果的だ。今年もここを背景に桜を撮った。
なんとも平凡なアングル・・・
桜に限らず、花は逆光で撮るのが好き。光を透過する花びらの透明感が好い。
この写真のみ110414撮影
春のフォトアルバム 松本城にて 撮影日150416 朝
■ 今朝、カメラを持って自転車で松本城へ出かけた。桜は見ごろを終え、散り始めていた。烏城とも呼ばれる黒と白、モノトーンの松本城にあって、月見櫓の朱塗りの手すりが効果的だ。今年もここを背景に桜を撮った。
なんとも平凡なアングル・・・
桜に限らず、花は逆光で撮るのが好き。光を透過する花びらの透明感が好い。
この写真のみ110414撮影
松本市内の駒町に祀られている馬頭観世音
■ 今朝、この祠に御幣が下げられているのを目にした。花も添えられていた。いつもと違う様子に立ち止まり、格子越しに中を覗いてみた。
優しい表情の観音様がすくっと立っていた。口びるに紅をさしてあった。下方から射す光が表情を豊かにしていた。どこかヨーロッパ的な雰囲気が漂っていた。こんな表情の石仏を私は他に知らない・・・。
■ 子どもの頃に「おこうしんさま」という言葉を聞いた記憶がある。私が暮らす鄙里でも昔は庚申講が組織されていたのだろ。庚申塔は今でもあちこちに祀られている。道祖神と同じところに並べて祀られていることも少なくない。でも道祖神と比べて認知度は低いように思われる。神様、仏様は移設されることはあっても撤去されることはないだろう。
庚申については何回か書いたので省略する。先日松本市の隣、山形村の建部神社でこの庚申塔(青面金剛像)を見かけた。摩耗が進んでいて像ははっきりしない。でも像の下の三猿は分かる。右から見ざる、言わざる、聞かざると並んでいることも。うっかり裏面を確認するのを忘れた。建立年が刻まれているかもしれない。
531 撮影日150413
■ 長野市内で所用を済ませての帰路、いつもとは違うルート、国道18号を走行していてこの火の見櫓に遭遇した。じっくり観察している時間的余裕が無く、写真を撮っただけだった・・・。
高い部類に入る細身の火の見櫓。北信、東信の火の見櫓は総じて細身。リング式ターンバックル付きブレースを用いた火の見櫓とはやはり印象が異なる。櫓の柱はストレート、末広がりではない。見張り台に半鐘は無く、踊り場に半鐘がある。
屋根の一部が欠損しているのは残念。見張り台の床下の方杖が下方にはらんでいることもブレースも踊り場の構成も善光寺の仁王門脇に立っている火の見櫓と同じ。
脚部は正面のみ斜材によって開放し、他の面はブレースを入れている。脚としてのデザインがなされていないのは残念。
■ 同じ食材でも人によってできる料理が違うのと同様に、同じ狛犬を取り上げても人によって捉え方やまとめ方、紹介する内容やその方法が違っていて何ら不思議はない。
例えば茶筒のような単純な円筒形でも真横から見れば長方形に見えるし、真上から見れば円に見える。狛犬のような多くの情報を持った対象であれば、人によっていろんな見方があって当然だろう。こんな見方があるのか、という新たな視点が設定できるのかどうか・・・。
狛犬ファンはかなりの数に上るだろうから、見尽くされていると言えなくもないのかもしれない。通り一遍の紹介でももちろん興味深いし、有用な情報であることには違いないが、やはりオリジナルな視点を持ちたいものだと思う。
狛犬の広大な世界に迷い込むに際して、いや、どんな世界であれ、この辺りを意識というか、心得ておくべきだろう。
*****
松本市梓川倭のある岩岡神社を訪ねた。ここにも狛犬が棲息しているという情報を事前に得ていた。神社を狛犬の棲息地と捉え、まずはその環境といえば大袈裟だが、様子を見ることにする。
全景。梓川の左岸、桜咲く堤防道路の近く、畑や田圃が広がるのどかな場所だ。
参道の桜がちょうど見ごろだった。と書いて気になるのは鳥居の手前のこのアプローチを参道としてよいかどうかということ。このあたりもいずれスッキリ!しなくてはならない。そう情けないことにこんなことも分からないのだ。
鳥居、これもいくつものタイプがあるようだが、今のところは単に鳥居としておこう。境内の案内板によるとこの鋼製の鳥居(このようなタイプを両部鳥居というらしい)は昭和58年12月に建設されている。
ここの狛犬は自然豊かな恵まれた環境に棲息しているではないか。
鳥居をくぐるとこんな様子で正面に拝殿があり、その手前で1対の狛犬がガードしていた。まだ狛犬観察は始めない。棲息環境、狛犬のガード対象の観察・理解が先だ。
拝殿
拝殿の左側にまわって本殿を確認した。鞘堂に納められていて姿をはっきり見ることはできなかった。
拝殿の格子戸から本殿の正面が辛うじて見えた。狛犬ファンは御祭神をどのように知るのだろう・・・。偶々拝殿にこの神社を紹介するチラシが貼られていたので健御名方命と瀬織津姫命の2柱だと知ることができた。
神様の名前は難しい、読めない・・・。ビジュアルに姿をイメージできないからつまらない、などと書いてはいけない。狛犬が守護する神様の名前はきちんと押さえておかないと。
拝殿に向かって左後方に朱の屋根の末社があった(現代用語、もとい神社用語の基礎知識を身に付けなければならないが、俄か仕込で、摂社と末社の区別がつかない。拝殿に貼ってあったチラシに末社と紹介されていたのでそれに因った)。ちなみにこれらの末社は右から荒神社、戸隠社、農神社、八王子社だという。
注連縄つきの大きな黒い石、これは何?説明板によると昭和24年の7月、近傍を流れる梓川の大洪水の際、河川の砂利の中から出現した大石で、地元岩岡地区の安住と繁栄を祈願する「神石」として祀られているそうだ。
社務所
このような神社を守護する狛犬を見てみる。
りっぱな台座に据えられている。氏子の皆さんの狛犬に寄せる期待の大きさが窺える。コマ、しっかり守ってくれよ!台座に刻まれた文字により昭和11年3月に建立されたことと、寄進者が東京の小松 茂という方だということが分かった。
さて、肝心の狛犬観察だが・・・。観察ポイントがよく分からない。火の見櫓ではチェックポイントを自分なりに考えてリストアップした。同様のことを狛犬でもすればよいだろう。体全体の様子、顔の表情、体の各部位のデザイン・・・。少し時間をかけて考えよう。
顔にズームイン。ディンプルな眼が特徴的。
親子の微笑ましい姿(上の狛犬の子どもの頭は分かりにくいかもしれない。左下で紐を銜えている。下の子どもは上を向いて親の顔を見ている)
像を正面から見るとプレス機にかけたよう。
後ろ姿 拝殿から見るとこのような位置関係になる。左が獅子、右が狛犬(獅子・狛犬をまとめて狛犬と称すことが一般的らしいが、区別するために獅子と狛犬とする)。
*****
拝殿の屋根上の狛犬にも注目(上段:向かって右側は阿形、下段:向かって左側は吽形)
■ 安曇野市は三郷温にある住吉神社を訪ねた。狛犬に魅せられることがなければ訪れる機会があったかどうか・・・。この神社には明治、大正、昭和と各時代の狛犬がいるという情報を前から得ていた。
鳥居の前から参道を見る。拝殿までの距離が長いのかそうでもないのか分からない・・・。まあ、このくらいは長くもないのかな。
鳥居のすぐ先にこの狛犬がいた。向かって右側の阿形の獅子、「ほら飴玉なめてるよ」とでも言いたげに口を開けている。頭の上は宝珠と見るべきか。体はつるりんちょ。獅子だといわれてもピントこない姿。
後姿はこんな感じ。太くて短いしっぽがあってその下には幾何学的な渦模様が彫り込まれている。台座側面の図にも意味があるのだろうが、分からない・・・。
股間情報によってオスと判断した。これを裏付けるように『日本全国獅子狛犬ものがたり』には**陰陽思想では阿吽の「阿」は「陽」で、「吽」は「陰」であることから、阿形の方が陽で「オス」、吽形の方が陰で「メス」とされることが多いようです。**(30頁)とあり、続けて**獅子・狛犬は神社やお寺を守護する霊獣なのですから、強くたくましいオスでなくてはならないはずです。**とある。
向かって左側は吽形の狛犬。頭の上の突起は退化した角とみるべきか。玉を前脚で押さえている。こちらの股間情報からオスとは読みとれなかった。
台座に刻まれた建立年は明治25年8月吉日。
神楽殿越しに拝殿を見る。拝殿の前に2対の狛犬がいる。
まずは手前の狛犬。参道脇の狛犬とはかなり違っていて厳しい表情をしている。
ふさふさのたてがみをカールしている。オシャレではないか。でもなんとなく個性を感じない。あちこちにいそうな気がする。
向かって左側は子連れ狛犬。
台座のプレートに、それまであった随神銅像を戦争に供出してしまったので、昭和40年4月に、この狛犬を奉献したことが記されている(のぶさんの記事で確認)。この手の基本的な情報はきちんと押さえなくては・・・。
レポート不可、再提出!
次はこの迫力のある狛犬
拝殿近くにいた大正狛犬。手前の昭和の狛犬に比べて体躯は小さいが、上のツーショット写真で分かる通り、恐い表情は昭和に勝る。
低く構えた威嚇的態度には迫力がある。向かって右側、阿形の獅子の頭に角があり、左側の吽形の狛犬の頭に宝珠がある。拝殿に向かって左側の狛犬に角があるのが一般的ではないかと思うが、それと違う理由が分からない・・・。
この狛犬の石工は北原柳太郎。ネットで北原柳太郎について調べると多くの石工を輩出した高遠の出身で、現在の諏訪市中洲神宮寺に移り、明治13年(1880年)に石材店を開業している。石工の柳太郎は石柳と呼ばれていたそうで、社名の石柳北原の由来だという(同社HPによる)。
まだ狛犬を観察する私なりの視点が見つからない。狛犬の棲みかまで取り上げるかどうかも含め、「考え中」としておきたい。
* 狛犬取材はじっくり時間をかけて、情報をきっちり読みとり、メモすること。のぶさんの指摘からの教訓。
これが取材の「基本のき」
松本市笹賀今村の火の見櫓 この火の見櫓を取り上げるのは2回目
■ 踊り場の床のところに設置された銘板から昭和30年4月に建設されたことが分かる。銘板には山葵粉を製造している東京都内の会社が寄贈したことが記されている。ネットで調べて、この会社は社名が変わったが、現存していることがわかった。この土地に縁のある会社だろう。
銘板に鉄工所名は記されてはいないが、外観上の特徴から大橋鐵工所の火の見櫓とみて間違いなかろう。手元にある大橋鐵工所の図面と細部までデザインが同じだ。
火の見櫓は季節によっても見る方向によっても印象が変わるし、再見することで新たに分かることもある。初回は火の見櫓観察を始めて間もない頃だったから銘板に気が付いていなかったのかも知れない。やはり2回、3回と足を運ばないとダメだ。
■ 昨年自宅をリフォームした際、リビングの書棚を撤去してしまった。そこに収めていた文庫本を仕方無く自室の机の上に積み上げているが、昨晩そこを整理していて偶々『へそのない本』を手にした。
3年前(2012年)、北杜夫の本を何冊か再読したが、その時はこの本を読んでいなかった。水色のレトララインが貼ってあるから20代の時に読んだ本だ。
カバーの佐々木侃司氏のイラストがなつかしい。週末は北杜夫の世界に浸るか・・・。
■ 『江戸東京の路地 身体感覚で探る場の魅力』岡本哲志/学芸出版社 再読。
岡本氏は本書で**路地はハード面の空間をつくりあげるだけでは生まれてこない。そこに住む人たちが育てていける空間でなければ、本物の路地は生まれないことをしっかりと受け止める必要がありそうだ。**(85頁)と指摘している。
**固定した空間をつくってしまうと、後は建物が老いるばかりで、街が成熟しない。老いる美学もあるが、建物だけで街の魅力は語れないように思う。人が街を育ててきたかどうかにかかっている。**(154頁)とも指摘している。
また、**人々が生活する時間のプロセスを経て、場所ごとの空間のアイデンティティを発揮する。この一連の流れを「時間の設計」と呼びたい。**(170頁)とも。
東京都内各地の路地を観察し、分析することで得られた路地、街づくりのあり方を説いている。
なるほど!な論説だった。
530
■ 松本市の大村地区に火の見櫓が立っているということは同僚のAさんから聞いて知っていたが、具体的な場所は確認していなかったし、訪れる機会もなかった。
昨日(8日)近くまで所用で出かけた際、偶然見つけた。以前南浅間で見た火の見櫓と同じタイプだった(過去ログ)。
全体的な姿、形はもちろん、屋根の上の「だんご」、鋼管から成る櫓、リング式ターンバックルではなく、スリーブ型のターンバックルを用いたブレースなども似ている。同じ鉄工所で建てたのだろうか。
この写真だけ別方向から撮った。脚部は実にシンプル。
春のフォトアルバム 撮影日 150408 朝
今朝、久しぶりにヒヨドリが柿の枝先にとまっているところを見た。
冬の間、野鳥たちは餌を見つけることができたのだろうか・・・。