(泉能寺)
泉能寺
五味長元の墓を訪ねて泉能寺まで足を伸ばした。ところが、墓地には五味家の墓がいくつもあって、残念ながら、長元の墓を特定することはできなかった。恐らく縁戚になるのだと思うが、墓地内には、五味国鼎(1754没。学者、医者)、五味可都里(1817没。俳人)などの墓もある。
五味長元(もしくは張元、安郎右衛門)は、甲斐巨摩郡藤田村(現・山梨県南アルプス市藤田=とうだ)の生まれ。安政七年、遣米使節団の一員に選ばれ、咸臨丸で太平洋を横断した。時に六十一歳であった(使節団中の最年長である)。帰国後、『安政寅申米使日記』という見聞録を残した。アメリカから入れ歯と避雷針を持ち帰ったという。明治二十三年(1890)、九十一歳で没。
泉能寺
五味長元の墓を訪ねて泉能寺まで足を伸ばした。ところが、墓地には五味家の墓がいくつもあって、残念ながら、長元の墓を特定することはできなかった。恐らく縁戚になるのだと思うが、墓地内には、五味国鼎(1754没。学者、医者)、五味可都里(1817没。俳人)などの墓もある。
五味長元(もしくは張元、安郎右衛門)は、甲斐巨摩郡藤田村(現・山梨県南アルプス市藤田=とうだ)の生まれ。安政七年、遣米使節団の一員に選ばれ、咸臨丸で太平洋を横断した。時に六十一歳であった(使節団中の最年長である)。帰国後、『安政寅申米使日記』という見聞録を残した。アメリカから入れ歯と避雷針を持ち帰ったという。明治二十三年(1890)、九十一歳で没。
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