(青山霊園 つづき)
赤井家累代之墓
天明七年(1787)の生まれ。躯幹雄渾で幼少より武を好み、十字鎗を能くした。のち昌平黌に入り古賀精里に従い力学すること五年、文化十年(1813)黌を辞し、自ら塾を開いた。時に二十五歳。文政十二年(1829)、高松藩主に召されて十人扶持を賜り、世子に侍講した。爾後、しばしば禄を加え秩を増し、ついに使番に班して米百俵を賜る。東海は江戸在留の藩士であったが、一時高松に帰り、今の上笠居の薬師寺に寓し、藩士中では寺井樾屋と非常に親しかったという。文久二年(1862)、年七十六で没。(1種イ3号5側)
日南先生池原香稺翁墓
室 池田百刀自
天保元年(1830)、長崎の生まれ。名は香稺(かわか)。備前岡山の上田及淵に学び、安政三年(1856)、長崎で眼科医を開業する傍ら、国学を教授した。維新後は宮内庁文学御用掛。明治十七年(1884)、五十五歳にて死去。(1種イ5号24側)
長崎市禅林寺にも墓がある。
磯林大尉之碑
磯林真三は、嘉永六年(1853)の生まれ。土佐出身の軍人。明治十年(1877)の西南戦争にも出征した。明治十一年(1878)の竹橋事件ではその鎮圧に功があった。明治十六年(1883)、花房義質に従って公使館付として朝鮮に渡った。明治十七年(1884)十二月の甲申事変の際、公使館に引き返す途中、殺害された。三十二歳。
見上げるほどの顕彰碑は、明治十九年(1886)十二月の建立。篆額は有栖川熾仁親王。撰文は山県有朋。書は日下部東作(鳴鶴)。(1種イ13号3側)
横川省三墓
横川省三は慶應元年(1865)、盛岡の出身。若い頃は自由民権運動に関わり、加波山により投獄された。その後、朝日新聞の記者として日清戦争の従軍記者などを担当。記者を辞めた後は、平戸出身の沖禎作とともに特殊工作に携わった。明治三十七年(1904)、日露戦争開戦前夜、ロシアにおける諜報活動、ことに輸送路破壊活動に携わり、ロシア軍に捕らわれてハルピンで処刑された。(1種イ16号1側)
青山霊園の墓は、雑草で覆われ長らく手入れがされていない様子である。墓石の前には「ご縁者様は霊園事務所までお立ち寄りください」と記した看板が建てられている。無縁化しているらしい。
黒田氏之墓(黒田益男の墓)
黒田益男は、文政十年(1827)の生まれ。広島藩士。雅号を蝸亭と称した。槍術師範黒田弥五右衛門の弟で、藩政改革派の一人として行動、国老浅野式部、執政辻将曹(維岳)らに従ってたびたび上京し、文久三年(1863)二月には用達所詰となり、諸藩との交渉にあたった。慶應三年(1867)九月、神機隊の設立に際し、船越八百十郎、小鷹狩正作とともに資金調達に尽力した。慶應四年(1868)の戊辰戦争では、神機隊の総括者として同志とともに隊員三百名を率いて奥州を転戦し、同年勘定奉行になった。明治二十年(1887)、年六十一にて没。(1種ロ8号29側)
東郷家之墓
海軍中将正四位勲一等功四級
東郷吉太郎墓
元帥東郷平八郎母 東郷益子之墓
東郷益子は、東郷平八郎、小倉壮九郎の生母。東郷吉太郎中将の墓所の片隅にひっそりと墓が建てられている。東郷吉太郎は、平八郎の甥。すなわち平八郎の長兄東郷四郎兵衛の息であり、益子は祖母にあたる。(1種ロ10号34側)
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