和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ゾマーさんのこと。

2007-04-12 | テレビ
パトリック・ジュースキント著・池内紀訳「ゾマーさんのこと」(文藝春秋)に登場する、ぼくの父親が気になりました。その主人公のぼくの家庭には、たいへんに面白い規則があるのです。その箇所を引用してみると、

○ラジオを自由に聴かしてもらえないこと。そのため木曜の夜十時から十一時にかけて放送される犯罪ドラマを聴くことができず。翌朝、スクールバスのなかで友人コルネリウス・ミヒャエルの曖昧な記憶を通して復元しなければならない。
○家にテレビがなかったこと。父はつねづね言明していた。『わが家にテレビは入れさせない』
・・・テレビは『ホームコンサートを駆逐し、視力を衰弱させ、家庭生活を破壊し、総体的な荒廃に導く』という。何ごとにも異をたてたがる母さんだのに、なぜかこの点ではまったく父さんと同意見で、そのためぼくは『母親万歳』や『名犬ラッシー』、『ヒラム・ホリデーの大冒険』といった文化的事件にあずかるためには、友人コルネリウスのところまで出かけていかなくてはならなかった。・・(p106~107)


この箇所が興味深いのは、訳者の池内紀さんの家庭を思い浮かべたからでした。
ちょうど、今年「毎日書評賞」を受賞したのが池内恵著「書物の運命」でした。
その池内恵さんの父親というのがドイツ文学者の池内紀さんというわけです。
それでは、「書物の運命」(文藝春秋)の、最初に書かれている興味深い箇所を少し長めに引用してみます。

「なにしろ生家にはテレビがなかった。父が『ドイツ文学者』なるものをやっていて、しかもかなり頑固だったので家にテレビを置かないというのである。1960年代半ば、高度経済成長の真っ只中に人々が求めたのは『3C』すなわち、『カー、クーラー、カラーテレビ』だったそうだから、私の場合、家庭内の環境としては『戦後すぐ』に等しかったことになる。小学校の同級生の母親が『まあ教育のためによろしくて』と私の母に言っているのをぼんやり記憶しているが、明らかにこれは子供の教育のためではない。『ドイツ文学』などという周辺に追いやられる一方の部門に従事する父の、出版文化を脅かす華やかな新興メディアに対する僻(ひが)み根性が嵩じたに過ぎなかっただろうと推測している。」(p13)
「思い返すと、小・中学生のころは学校に行って同級生の発言が聞き取れないということは当たり前だった。この年頃の会話からテレビに関する固有名詞を抜いたら、ほとんど残らない。しかも英才教育の私立・国立ではなく、ごく普通の公立学校に通ってかなり手洗い『芋洗い』の中に放り込まれていた。そもそも子供同士の挨拶で『おはようございます』とは言わない。例えば朝、顔を合わせて最初の一声が「『いいとも』見た?」であったりする。要するに「あなたは日曜日、昼のテレビ番組『笑っていいとも!』を見ましたか?」という意味だが、もちろん見たか見ていないかを聞きたいのではなく、挨拶代わりである。しかしこちらとしては最初はこれがまったく謎の単語となる。・・そしてまた、活字媒体なら生活の中に溢れていた。」(p14)


ここで、「ゾマーさんのこと」へ話題をもどすと。
終盤に、主人公のぼくが、ゾマーさんとの最後の出会いを語る箇所。
友達の家でテレビを見て、家の夕飯に間に合うように自転車で帰るところでした。

「秋だった。コルネリウス・ミヒャエルのところでテレビを見ていた夜のこと。
そのときの番組は退屈だった。終わりが早々と予想できた。ぼくは終了五分前に腰を上げた。これならなんとか夕食の席にとびこめる。」

この帰宅の途中で、ゾマーさんの最後を目撃することになるのでした。
この本の最後で忘れがたい言葉はというと、


「ぼくは口をつぐんでいた。ひとことも真相を言わなかった。例の夜、かなり遅くに家にもどった。ついてはテレビのもたらす弊害について一席のお説教をくらったが、そのときも見たことをいっさい口にしなかった。その後の騒ぎのあいだも同様だった。姉さんにも、兄さんにも、警察にも。コルネリウス・ミヒャエルにさえも洩らさなかった・・・どうしてかたくなに口をつぐんでいたのか、なぜ話そうとしなかったのか・・・・」


ところで、テレビつながりで、なんとなく私に思い浮かんだのが谷沢永一の「相撲解説に水さすアナ」という短文。その紹介。

それは昭和58年の文で、テレビの相撲解説を語っておりました。
「殊に私は神風がヒイキで、彼の解説には教えられるところが多い。栃錦があれほどの人気を得たのも、神風が当初から非常に肩入れし、栃錦の立ち合いとワザの勘所を、はっきり解き明かしたからではあるまいか。こうして神風の解説に期待する私を、いつも邪魔するのがアナウンサーである。クロウトの神風が批評する前に、シロウトのアナウンサーが生意気にしゃしゃり出て、さも得意気にヘラズ口をたたく。多くの場合、その発言が、全く見当違いのひとりよがりであるから、メンツをつぶさないよう微妙な言いまわしで、神風が苦労しているのを気の毒に思う。・・・・」(谷沢永一著「時代の手帖」潮出版社。そこの最初にある文です)


テレビを見ないことの得はといえば、
ひとつが、アナウンサーの見当違いを聞かずにすむ。ということでしょうか?
コメント (2)
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