和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

だから決めた。

2011-12-27 | 詩歌
「茨木のり子の家」(平凡社)という写真集を見ていると、
自然に、茨木のり子の詩が浮かぶわけです。
ここでは、【家】というキーワード。


文春ネスコ編「教科書でおぼえた名詩」という本があります。そのはじまりには、

「本書は、昭和20年代から平成8年までに日本の学校でつかわれた中学・高校の国語の教科書・1500冊あまりから、だれでも一度は耳にしたことのあるなつかしの詩歌をよりすぐった愛唱詩歌集です。・・・」とあります。

この「教科書でおぼえた名詩」に、茨木のり子の詩は2篇。「わたしが一番きれいだったとき」と「自分の感受性くらい」が並んでいて、2篇の詩の前に、与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」がありました。

「君死にたまふことなかれ」についてでは、最近読んだ中西輝政著「日本人が知らない世界と日本の見方」(PHP研究所)にこんな言葉がありました。「『君死にたまふことなかれ』は反戦ではなく、『家』の問題を詠んだものです。」(p175)

ちょっと話題が横滑りするようですが、ここにも『家』が登場しているので、ていねいに引用していきます。

「戦後の歴史教科書に、与謝野晶子の反戦歌が出てきますね。日露戦争のところで必ず紹介される『君死にたまふことなかれ』です。しかし本来あれは、反戦歌ではありません。与謝野晶子は、じつは大変な【軍国主義者】だったのです。第二次世界大戦のとき、自分の四男が海軍軍人として出征する際、その息子の武運を願う歌を詠んでいます。『水軍の 大尉(だいい)となりて我が四郎 み軍(いくさ)に征(ゆ)く 猛(たけ)く戦へ』と。
『君死にたまふことなかれ』は反戦ではなく、【家】の問題を詠んだものです。『弟は長男だから、死ねば家が途絶えてしまう。だから戦争に行っても、死んではいけない』。そういう思いが主題です。家への思いが先にあり、なぜ長男である弟を兵隊に取るという、バカなことをするのか。次男三男なら、いくら死んでもかまわない。むしろ口減らしになる、とまではいわないが、長男は大事な跡取り、というのは与謝野晶子に限らず、戦前までの日本の常識です。・・・」(~p176)

うん。与謝野晶子や茨木のり子の詩を反戦歌というだけで見る浅薄さ。

ちなみに、「茨木のり子の家」の本で、家の写真を見ただけだと、テレビが、この家にはないようだなあ(この話題は、詳しく語ると長くなりそうなのでここまで)。テレビといえば、最近完結したNHKの「坂の上の雲」を、私はわくわくしながら見ておりました。今年の放映では、旅順攻撃が出てきておりました。
与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」には題のわきに、「旅順口包囲軍の中に在る弟を嘆きて」という言葉があるのでした。すこし詩から引用してみます。


  堺の街のあきびとの
  旧家をほこるあるじにて
  親の名を継ぐ君なれば、
  君死にたまふことなかれ、
  旅順の城はほろぶとも、
  ほろびずとても、何事ぞ、
  君は知らじな、あきびとの
  家のおきてに無かりけり。


こういう詩を国語で教えるのは、教師の力量を問われから難しいだろうなあ。ところで、詩「わたしが一番きれいだったとき」の最後はというと、こうでした。

 わたしが一番きれいだったとき
 わたしはとてもふしあわせ
 わたしはとてもとんちんかん
 わたしはめっぽうさびしかった

 だから決めた できれば長生きすることに
 年とってから凄く美しい絵を描いた
 フランスのルオー爺さんのように
                 ね


うん。茨木のり子は、2006年(平成18)2月、自宅で死去、享年79歳とあります。平均年齢からいえば、もうすこし長生きしてほしかったけれど、その家で、暮らしに根ざしながらも、昇華された「凄く美しい」詩を書いた。

コメント (2)
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