内村鑑三は、1861年(万延2年)~1930年(昭和5年)
正宗白鳥は、1879年(明治12年)~1962年(昭和37年)
年譜を見ると、正宗白鳥は70歳(昭和24年)の時に、
「内村鑑三」を雑誌に連載しておられる。
そこから、引用しておくことに。
「 ・・私も少年期青年期には、いろいろな方面に渡って
さまざまな人間に心酔したのであった。
そのうちで誰にもまして私が心酔したのは、
内村鑑三であったように思われる。何故であるか。
20歳前後の数年間、内村の筆に成る者はすべて熟読し、
その講演は聴き得られる限り聴いた。
青年期にそれほどに心酔していたとすると、私の一生に
彼の及ぼした感化影響は容易ならぬものであった筈だ、
と想像されるが、果して異常の感化を受けていたであろうか。
老後の私はそれを考えている。そして、
昔読んだ初期の内村の作品を読み返して、
わが受けた感化の真相を検討しようとしている。 」
( p22 正宗白鳥著「内村鑑三 わが生涯と文学」講談社文芸文庫)
あと一か所引用しておきます。
「 私は病後、まだ癒り切らぬ弱い身体を引提げて上京した。
下宿屋の粗末な食事に安んじて学校通いしていたが、
私の身体は見掛けは弱いようでも、心は強いところがあるのか、
次第に気力は回復し、学問修行に堪えられるようになった。
・・・・・・・
あの頃の私には内村第一であった。彼によって刺激され、
彼によって智慧をつけられ、彼によって心の平和を得る
道を見つけんとしたのであった。
内村は演説がうまかった。
植村(正久)の説教を聴いていると、眠くなるようであったが、
内村は我々を昂奮させ、眠い眼をも醒まさせるのであった。
押川方義はあの頃の基督教界の雄弁家であったが、
これは世俗的雄弁家で、内村は精神的雄弁家であった。
・・・・・
私は独りとぼとぼと読んでいたのであったが、
内村の聖書の解釈が直裁であり、基督教観に、
他の伝道者の説と異った独自一己の趣があるのに心惹かれ、
それによって、我が聖書の読み方が生きて来るような
気がしたのであった。 」 ( p23∼24 同上 )
20歳前後に読んだ本は、私は何だったかなあ。
「日本人とユダヤ人」は、読んでおりました。
さてっと、これくらいにして、これから未読の
内村鑑三の著作を文庫本でもって、読んでみようと思うのでした。
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