週刊誌の購読はしてない。
新聞の定期購読は一紙のみ。
ということで、
月刊誌については、財布を緩めぎみ(笑)。
Voice5月号の曽野綾子さんの連載「私日記」は
「忘れるための月日」と題されております。
そのはじまりは
「2017年2月1日~28日
この月、私の意識の中から、社会が霞んでいる。
2月3日早朝、夫の三浦朱門が病院で息を引き取った。
恵まれた死、というのはおかしいという人がいるだろう。
しかし私にはそう見える。朱門は、取り立てて心配する
こともなく、亡くなったからである。」
こうはじまる8頁。
読ませていただきました。
「朱門と私は、生涯よく話をした。
朱門は、ゲームも嫌い、昔、同人雑誌の仲間が
我が家で麻雀をしていても、自分だけは傍に
寝ころがって本を読んでいた。
だから我が家の娯楽はお喋りだけだった。
昼間私が一人で行動をした日には、
誰が何をした、どんな光景だった、
ということを私は逐一喋った。」
「最後の晩も、私は病人のベッドから
3メートルも離れていない所にあるソファで寝ていた。
そんなところで疲れたでしょう、という人もいたが、
私は人生の半ばからアフリカへ行くようになって
未開の土地へよく行ったので、こんな上等なソファがあれば、
眠れないという人がいるのが不思議なくらいだった。
三日早朝・・・・ここのところずっと不規則な生活を
していた私は、せめて朝のシャワーを浴びようと思った。
ほんの数分である。浴室を出て来ると
既に朱門は呼吸していなかった。」
「四日夕方、ちょうどボリビアから帰国されていた
倉橋神父さまが来てくださって、我が家で秘密葬式をした。
・・倉橋神父の葬儀は、出席した人が、驚くほど明るい
幸せなものだった。家族と数少ない知人と親戚だけで、
神父は、今日は朱門の魂の誕生日だと言われ、
その場で祭服の下からハモニカを取り出して、
『ハッピイ・バースデー』を吹いてくださったので、
私たちは皆合唱した。
朱門の死の周辺には、ほんとうに暗い要素がなかった。
葬儀のミサが終わると、私たちは朱門がよく行っていた
近くの中華料理さんに歩いて移動し・・会食をした。
秘書は目的を知らさずに二十人分の席を予約したので、
ご主人は当然今日も朱門がいると思っていたらしい・・
『今日、三浦先生は来ないのかね』
すると私が無表情で答えたと友達の一人は言うのである。
『昨日、死んじゃったんです』
その時の中華料理屋さんのご主人の凍りついたような
表情が気の毒だったと、彼女は言うのだが、
私にすれば何と言えばよかったのだろう。
私は最近、ともすれば、情緒欠損症だと周囲に思われて
いるらしいのだが、それが私の自己防禦本能の結果
だったと思えなくもない。
私はともかく、朱門の育った家庭は、
古い日本の生活の形式に、完全に無頓着であった。」
うん。命日が誕生日なら。
昔の人が命日を大切にしたのが、わかるような気がする。
新聞の定期購読は一紙のみ。
ということで、
月刊誌については、財布を緩めぎみ(笑)。
Voice5月号の曽野綾子さんの連載「私日記」は
「忘れるための月日」と題されております。
そのはじまりは
「2017年2月1日~28日
この月、私の意識の中から、社会が霞んでいる。
2月3日早朝、夫の三浦朱門が病院で息を引き取った。
恵まれた死、というのはおかしいという人がいるだろう。
しかし私にはそう見える。朱門は、取り立てて心配する
こともなく、亡くなったからである。」
こうはじまる8頁。
読ませていただきました。
「朱門と私は、生涯よく話をした。
朱門は、ゲームも嫌い、昔、同人雑誌の仲間が
我が家で麻雀をしていても、自分だけは傍に
寝ころがって本を読んでいた。
だから我が家の娯楽はお喋りだけだった。
昼間私が一人で行動をした日には、
誰が何をした、どんな光景だった、
ということを私は逐一喋った。」
「最後の晩も、私は病人のベッドから
3メートルも離れていない所にあるソファで寝ていた。
そんなところで疲れたでしょう、という人もいたが、
私は人生の半ばからアフリカへ行くようになって
未開の土地へよく行ったので、こんな上等なソファがあれば、
眠れないという人がいるのが不思議なくらいだった。
三日早朝・・・・ここのところずっと不規則な生活を
していた私は、せめて朝のシャワーを浴びようと思った。
ほんの数分である。浴室を出て来ると
既に朱門は呼吸していなかった。」
「四日夕方、ちょうどボリビアから帰国されていた
倉橋神父さまが来てくださって、我が家で秘密葬式をした。
・・倉橋神父の葬儀は、出席した人が、驚くほど明るい
幸せなものだった。家族と数少ない知人と親戚だけで、
神父は、今日は朱門の魂の誕生日だと言われ、
その場で祭服の下からハモニカを取り出して、
『ハッピイ・バースデー』を吹いてくださったので、
私たちは皆合唱した。
朱門の死の周辺には、ほんとうに暗い要素がなかった。
葬儀のミサが終わると、私たちは朱門がよく行っていた
近くの中華料理さんに歩いて移動し・・会食をした。
秘書は目的を知らさずに二十人分の席を予約したので、
ご主人は当然今日も朱門がいると思っていたらしい・・
『今日、三浦先生は来ないのかね』
すると私が無表情で答えたと友達の一人は言うのである。
『昨日、死んじゃったんです』
その時の中華料理屋さんのご主人の凍りついたような
表情が気の毒だったと、彼女は言うのだが、
私にすれば何と言えばよかったのだろう。
私は最近、ともすれば、情緒欠損症だと周囲に思われて
いるらしいのだが、それが私の自己防禦本能の結果
だったと思えなくもない。
私はともかく、朱門の育った家庭は、
古い日本の生活の形式に、完全に無頓着であった。」
うん。命日が誕生日なら。
昔の人が命日を大切にしたのが、わかるような気がする。