窪田空穂論を大岡信が書いており、そのはじまりに
「私は空穂先生に旧制高校入学時の保証人になっていただいていたこともあって、
その意味ではある種の親しみをこの大先達に抱いていた。
空穂の歌についても、父親が主宰誌『菩提樹』に
戦中から戦後にかけ書き続けていた『窪田空穂全歌集の鑑賞』と
いう厖大な文章によって、私は同年輩の少年たちの中では、
あえて威張って言えば、日本中で一番よく空穂の歌に通じていたはずである。」
「旧制高校入学時に保証人になっていただいたのをはじめとして、
大学へ入る時も、新聞社に入社する時も、雑司ヶ谷へ出かけては
ハンコをついていただいたし、もっと重要な一身上の問題についても、
困ると最後には雑司ヶ谷のお宅への坂を登った。
・・・・ふしぎなことに私にとってはいわばお祖父さんのように
さえ思われるようなところさえある存在だった。
けれども、この人の前で甘ったれたことを言うことは
一切できなかった。峻厳な批評精神の塊りが、
いつも微笑を浮かべながら、聞き上手のていをして
ゆったり目の前に坐っていたからである。・・・」
あとがきには
「私は旧制高校のころ以来、
少なくとも日本の詩歌文芸の読み方に関する限り、
ほとんど決定的な影響を空穂の著作から得たのである。」
「最も確実で強力な信頼すべき鍵は、私の場合、
つねに窪田空穂の著作にあった。」
「私が書くことのできたいくつかの日本詩歌に関する
少著類は、空穂の本から得た測り知れない恩恵を除いては
存在しえなかったと言っても過言ではないと思っている。」
ということで、大岡信の古典の保証人
という言葉が浮びました。
「私は空穂先生に旧制高校入学時の保証人になっていただいていたこともあって、
その意味ではある種の親しみをこの大先達に抱いていた。
空穂の歌についても、父親が主宰誌『菩提樹』に
戦中から戦後にかけ書き続けていた『窪田空穂全歌集の鑑賞』と
いう厖大な文章によって、私は同年輩の少年たちの中では、
あえて威張って言えば、日本中で一番よく空穂の歌に通じていたはずである。」
「旧制高校入学時に保証人になっていただいたのをはじめとして、
大学へ入る時も、新聞社に入社する時も、雑司ヶ谷へ出かけては
ハンコをついていただいたし、もっと重要な一身上の問題についても、
困ると最後には雑司ヶ谷のお宅への坂を登った。
・・・・ふしぎなことに私にとってはいわばお祖父さんのように
さえ思われるようなところさえある存在だった。
けれども、この人の前で甘ったれたことを言うことは
一切できなかった。峻厳な批評精神の塊りが、
いつも微笑を浮かべながら、聞き上手のていをして
ゆったり目の前に坐っていたからである。・・・」
あとがきには
「私は旧制高校のころ以来、
少なくとも日本の詩歌文芸の読み方に関する限り、
ほとんど決定的な影響を空穂の著作から得たのである。」
「最も確実で強力な信頼すべき鍵は、私の場合、
つねに窪田空穂の著作にあった。」
「私が書くことのできたいくつかの日本詩歌に関する
少著類は、空穂の本から得た測り知れない恩恵を除いては
存在しえなかったと言っても過言ではないと思っている。」
ということで、大岡信の古典の保証人
という言葉が浮びました。