与田準一著「詩と童話について」(すばる書房)が
古本で1円+送料347円=348円。
はい。購入しました。
函入です。線引きありとありましたので、
それでも、1円なら気になりません(笑)。
ということで、注文。届いてから確認すると、
最初のほんの数ページのところ二行だけ
赤いサインペンで線がひいてある。
それだけ。あとは、きれい。
どうも、
数頁読み、それっきりになっていた。
というような、きれいな古本でした。
ああ、いつか私が購入した本が
古本として出たら、そんなきれいな本が
どれだけあるだろうかと、
身につまされる想いが先にきました。
さてっと(笑)。
この本に、「教育としての詩」という章がありました。
そのはじまりは小学四年生の詩をとりあげての
AとBとの対話形式で書かれておりました。
その引用された詩はというと
雪
詩を書いていると
雪が降ってきた
えんぴつの字がこくなった
この詩についてAさんが質問します。
「この、小学校の四年生の子どもが、『詩』と、
いっているのは、どんなものでしょう。
わたしには、ちょっと、すなおに受けとれないものが、
ありますが・・・・。」
こうして、対談形式の5頁ほどの文(p170~174)が
気になりました。
はい。きりんの詩「雪」です。
「全日本児童詩集1950」(尾崎書房、1950年発行)
「自選 井上靖詩集」(旺文社文庫)
「井上靖 わが一期一会」(毎日新聞社)
と、この3冊が、わたしに思い浮かびます。
1冊目「全日本児童詩集1950」は、
最初の頁に、責任編集者の名前がズラリと並んでおりました。
川端康成・林芙美子・與田準一・丸山薫・村野四郎
梅木三郎・阪本越郎・久米井東・井上靖・安西冬衛
小野十三郎・竹中郁・坂本遼・足立巻一
あらあら、このなかに、与田準一の名前もあった。
この本の「さしえ」も名前が並んでいます。
小磯良平・吉原治良・井上覚造・川西英・須田剋太
山崎隆夫・前田藤四郎・田川勤次・池島勘治郎
沢野井信夫・津高和一・早川良雄
お目当ての詩「雪」はp58にありました。
次の頁には、版画でしょうか、二色刷りの絵。
それは真ん中に窓に向かって黒く塗りつぶされた
少年が右手に鉛筆を持っている絵です。
背景のガラス窓がぼんやりと楕円に青く描かれています。
ちょうど黒いシルエットの少年の頭の箇所に
窓ガラスの枠の桟がクロスしているようです。
硝子戸の桟(さん)の部分は白くぬかれて、
こちらからだと、少年が向くさきに、
十字架が置かれているようにも見えます。
硝子には外の青さが染まっています。
その青さのなかに点々と白。雪の白。
まあ、そんな感じの絵ですが、
どなたが描いたものか、署名なし。
つぎは「井上靖詩集」の詩集「運河」に
入っている詩。
雪
--雪が降つて来た。
--鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌
でみつけた詩だ。雪が降って来ると、私はいつ
もこの詩のことを思い出す。ああ、いま、小学
校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の
字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはち
ょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。勤勉、真摯、
調和、そんなものともどこかで関係を持っている。
はい。ちょっと行分けが間違ってしまいましたが、
ご勘弁ください(笑)。
つぎに、「井上靖 わが一期一会」から、
そこに、「『きりん』のこと」(p64~70)。
そこを、ちょっと引用。
「『雪』という詩になると、大人はもう敵わない。
雪が降ってくると、実際に鉛筆の字はこくなって
感じられるであろうと思う。大人では感じられないことを、
少年は少年だけが持つ鋭い感性によって感じとっている
のである。
私はこれらの少年、少女の詩から、文章を書く上に、
いろいろ教えられている。それぞれが、大人の詩人たちでさえ
及ばないようなものを持っているからである。しかし、
こうした詩を読むことによって得た一番大きい貰いものは、
小学校時代の子供たちが、例外なく鋭い感性を持ち、
それを虫が触角でも振り回すように振り回して生きている
ということを知ったことであった。」(p70)
さてっと、もどって与田準一「詩と童話について」
から、引き続きの引用をしてみます。
途中からです。
A わかりました。すると、教師は、『詩を書かせる』
という手段、方法で、子どもの感じる力を、きたえる
というわけですね。
B 子どもは、いつも、ものごとに、感じているのでしょうが、
『書くこと』で、そういう感受力が、ハッキリする。ひきだされる、
きたえられる、伸ばされる、方向づけられるわけです。
それは、そして、教師のうけ持たされた仕事ですし、
また、『教育の甲斐』というものでしょう。
A すると、その、感受力という力を、詩を書くことで、
はたらかせているうちに、神経質な子になったり、ものごとを、
しじゅう、受けとめるだけの、なんといいますか、
考えは深くはあるが、からだの弱い子になりませんか。
・・・・・・・・・・
B ・・・・感じたことを、書きあらわすということは、
また、『考える』人間としての、準備運動とも、いえましょう。
このごろでは、なにかにつけて、『批評』することが活発に
おこなわれていますが、ものごとを感受するということを
ヌキにして、批評は、できないはずです。
まず、対象について感受する能力があってこそ、
その対象の、よしあしを、批評することが、できるわでしょう。
このごろの批評には、この、感受力の基礎訓練を怠たっているくせに、
いっぱしの批評をやっているつもりの批評が、なきにしもあらずです。
それらは、案外、批評の型に、すぎないようです。
(p172~173)
う~ん。前の持ち主は、ここまで読まずに、
この本は古本になってしまっていたのだろうなあ。
そんなことを思いながら線をひいています。
古本で1円+送料347円=348円。
はい。購入しました。
函入です。線引きありとありましたので、
それでも、1円なら気になりません(笑)。
ということで、注文。届いてから確認すると、
最初のほんの数ページのところ二行だけ
赤いサインペンで線がひいてある。
それだけ。あとは、きれい。
どうも、
数頁読み、それっきりになっていた。
というような、きれいな古本でした。
ああ、いつか私が購入した本が
古本として出たら、そんなきれいな本が
どれだけあるだろうかと、
身につまされる想いが先にきました。
さてっと(笑)。
この本に、「教育としての詩」という章がありました。
そのはじまりは小学四年生の詩をとりあげての
AとBとの対話形式で書かれておりました。
その引用された詩はというと
雪
詩を書いていると
雪が降ってきた
えんぴつの字がこくなった
この詩についてAさんが質問します。
「この、小学校の四年生の子どもが、『詩』と、
いっているのは、どんなものでしょう。
わたしには、ちょっと、すなおに受けとれないものが、
ありますが・・・・。」
こうして、対談形式の5頁ほどの文(p170~174)が
気になりました。
はい。きりんの詩「雪」です。
「全日本児童詩集1950」(尾崎書房、1950年発行)
「自選 井上靖詩集」(旺文社文庫)
「井上靖 わが一期一会」(毎日新聞社)
と、この3冊が、わたしに思い浮かびます。
1冊目「全日本児童詩集1950」は、
最初の頁に、責任編集者の名前がズラリと並んでおりました。
川端康成・林芙美子・與田準一・丸山薫・村野四郎
梅木三郎・阪本越郎・久米井東・井上靖・安西冬衛
小野十三郎・竹中郁・坂本遼・足立巻一
あらあら、このなかに、与田準一の名前もあった。
この本の「さしえ」も名前が並んでいます。
小磯良平・吉原治良・井上覚造・川西英・須田剋太
山崎隆夫・前田藤四郎・田川勤次・池島勘治郎
沢野井信夫・津高和一・早川良雄
お目当ての詩「雪」はp58にありました。
次の頁には、版画でしょうか、二色刷りの絵。
それは真ん中に窓に向かって黒く塗りつぶされた
少年が右手に鉛筆を持っている絵です。
背景のガラス窓がぼんやりと楕円に青く描かれています。
ちょうど黒いシルエットの少年の頭の箇所に
窓ガラスの枠の桟がクロスしているようです。
硝子戸の桟(さん)の部分は白くぬかれて、
こちらからだと、少年が向くさきに、
十字架が置かれているようにも見えます。
硝子には外の青さが染まっています。
その青さのなかに点々と白。雪の白。
まあ、そんな感じの絵ですが、
どなたが描いたものか、署名なし。
つぎは「井上靖詩集」の詩集「運河」に
入っている詩。
雪
--雪が降つて来た。
--鉛筆の字が濃くなった。
こういう二行の少年の詩を読んだことがある。
十何年も昔のこと、『キリン』という童詩雑誌
でみつけた詩だ。雪が降って来ると、私はいつ
もこの詩のことを思い出す。ああ、いま、小学
校の教室という教室で、子供たちの書く鉛筆の
字が濃くなりつつあるのだ、と。この思いはち
ょっと類のないほど豊饒で冷厳だ。勤勉、真摯、
調和、そんなものともどこかで関係を持っている。
はい。ちょっと行分けが間違ってしまいましたが、
ご勘弁ください(笑)。
つぎに、「井上靖 わが一期一会」から、
そこに、「『きりん』のこと」(p64~70)。
そこを、ちょっと引用。
「『雪』という詩になると、大人はもう敵わない。
雪が降ってくると、実際に鉛筆の字はこくなって
感じられるであろうと思う。大人では感じられないことを、
少年は少年だけが持つ鋭い感性によって感じとっている
のである。
私はこれらの少年、少女の詩から、文章を書く上に、
いろいろ教えられている。それぞれが、大人の詩人たちでさえ
及ばないようなものを持っているからである。しかし、
こうした詩を読むことによって得た一番大きい貰いものは、
小学校時代の子供たちが、例外なく鋭い感性を持ち、
それを虫が触角でも振り回すように振り回して生きている
ということを知ったことであった。」(p70)
さてっと、もどって与田準一「詩と童話について」
から、引き続きの引用をしてみます。
途中からです。
A わかりました。すると、教師は、『詩を書かせる』
という手段、方法で、子どもの感じる力を、きたえる
というわけですね。
B 子どもは、いつも、ものごとに、感じているのでしょうが、
『書くこと』で、そういう感受力が、ハッキリする。ひきだされる、
きたえられる、伸ばされる、方向づけられるわけです。
それは、そして、教師のうけ持たされた仕事ですし、
また、『教育の甲斐』というものでしょう。
A すると、その、感受力という力を、詩を書くことで、
はたらかせているうちに、神経質な子になったり、ものごとを、
しじゅう、受けとめるだけの、なんといいますか、
考えは深くはあるが、からだの弱い子になりませんか。
・・・・・・・・・・
B ・・・・感じたことを、書きあらわすということは、
また、『考える』人間としての、準備運動とも、いえましょう。
このごろでは、なにかにつけて、『批評』することが活発に
おこなわれていますが、ものごとを感受するということを
ヌキにして、批評は、できないはずです。
まず、対象について感受する能力があってこそ、
その対象の、よしあしを、批評することが、できるわでしょう。
このごろの批評には、この、感受力の基礎訓練を怠たっているくせに、
いっぱしの批評をやっているつもりの批評が、なきにしもあらずです。
それらは、案外、批評の型に、すぎないようです。
(p172~173)
う~ん。前の持ち主は、ここまで読まずに、
この本は古本になってしまっていたのだろうなあ。
そんなことを思いながら線をひいています。