昭和46年発行の「館山市史」。その関東大震災の記述の中に
こんな箇所がありました。
こんな箇所がありました。
「 ・・・当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって、
県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
今でも感謝の語り草となっている。・・・・ 」(p565)
「安房震災誌」の中から、「感謝」に関係しそうな箇所を引用。まずは
「郡役所職員、各町村主脳部が打って一丸となって」と関連しそうな箇所。
「 ・・素より不規律でやっていくのであるが、
その不規律の中に一道の規律があった。
それは郡長が統率者となり一身を以て
総般の指揮に任じたことであった。殊に吏員は、
『 此際吏員は一身を捧げて罹災者の為めに大に努力すべし 』
といふ郡長訓示の下に身を捧げて働いたのである。
紙の上で画一的に定めた分担などよりも・・・・
罹災者を満足せしめた一層の出来栄えがあった。 」(p280)
「安房震災誌」の第八章「震後の感想」に安房郡長の
言葉としてでてくる箇所に『感謝』の言葉がありました。
「 それで、一人一人で考へて見てもよく分かることだが、
此の前古未曽有の大震災の中で、大部分の人が
或は死に、或は傷いてゐる中に、
『 自分は一命を全うしてゐるといふこと自体が、
既に『 感謝 』すべき大なる事実ではないか。 』
自分はどうして一命が助かったか。
と、ふりかへって熟々と自己を省みると
『 感謝 』の涙は思はず襟を潤ほすのである。
実に不思議千萬な事柄である。
不思議な生存である。
ありがたい仕合せである。
生命の無事なりしは何よりの幸福なり。
一身を犠牲にして萬斛の同情を以て罹災者を救護せよ
と、震災直後、郡役所の仮事務所に掲示して
救護に当る唯一のモットーとしたのも
此の不思議な生存観から出発した激励の一つであった。・・・」
( p313~314 )
その直前の箇所にはこうあるのでした。最後にそこを引用しておきます。
「 ・・・氏(郡長)はいふ、此の大震災に就て、
自分が身を以て体験したところを一言にして掩ふならば、
『 感謝 』といふ言葉が一番当ってゐるやうに思ふ。
・・・実感を本当にいひ現はすには、
自分の知り得るだけの言葉では、総てに向って
『 感謝 』するといふ外はない。・・・・
・・・それは大震災当時の事実に当てはめて見ると
文字通りの『 感謝 』では、物足らぬような感じがするのである。
それは第一今回の大震災に就て、
皇室の有難き御思召を思ふとき、
正にそう感ぜずには居られない。
次には郡の内外の切なる同情である。
それと又郡民と郡吏員の真面目な、
そして何処までも忠実な活動振りである。
どちらから考へても『 感謝 』であって、
そして、『 感謝 』の内包をもう少しく深めたくなるのである。 」
( p312∼313 )