昭和46年発行の「館山市史」に、「関東大震災と館山」という
10ページほどの箇所があります。記録箇所は「安房震災誌」から
とられており、「大正大震災の回顧と其の復興」からの引用もあります。
そんな中に、ほかでは読めない箇所もありました。
ここには、嶋田石蔵氏の回想談「富崎の津波」を引用してみます。
これは、なかなかに聞けない談話なので、全文を引用することに。
「私は大震災の時は千葉師範の生徒であった。
9月1日大地震になったので、すぐ様帰郷を許されて、
仲間数人と線路づたいに房州へ向かった。
途中曲りくねった線路の上を、余震におびえながらとぼとぼと歩いた。
五井駅付近に来た時、道往く人に、大島が海の中に沈んで、
房州も陥没して海びたりになってしまったと聞かされた。
でも、まあとに角 家に帰ろうと勇気をふるい起こして歩きつづけた。
上総湊付近まで来た時、房州は大地震だったが、
海には沈んでいない事が分かった。途端に腹がへってきて、
物売りの婆さんから卵を買って食べた。
それが大変うまかったので、いくつも食べた。
さて、かんじょうになったら一個30銭と言われびっくりした。
他に大人もいたので婆さんに『暴利も甚だしい』と、かけ合って、
たしか10銭にしてもらったことをおぼえている。
( 幾日か後、暴利取締令が出された )
上総と房州の境の鋸山トンネルを通り抜ける時は、
膽を冷やした。入口で売っている、ろうそくともして
長い長いトンネルを歩いていくと、中程に大きな石塊が
ごろごろしていて、気味が悪かった。
どうやら30分位かかって通り抜けることができた。
ようやく房州に入って、疲れた身体を富崎の自宅まで運んだ。
千葉を出てから丁度3日間かかった。でも家に着いて見ると
家族全員無事で主家も流されていなかった。
しかし津波の被害は惨たんたるものであった。
( 津波流失家屋70戸 )
納戸の窓に船の『みおせ』がのぞいているし、
石垣下の物置は跡かたなく波にもっていかれて、
大切な家財は一物も残っていない。
陸地のそちこちには、船がおき忘れられてあるし、
家屋のがらくたが、そこの丘、こちらの山蔭に散らばっている。
平砂浦の浜辺には、家屋のこわされた姿が惨めな形で打ち上げられている。
津波の如何に大きかったかということを物語っていた。
後で家人に聞いた処によると
『 大地震のあと、沖へ沖へと海がひいて、
野島という陸地から300メートルもある島も陸つづきとなるし、
海岸一帯は2メートルも隆起する。人々は『津波がくるぞ』と
相浜の人々は大鑑院へ、布良の人々は布良崎神社の方へと逃げた。
やがて洲崎方面から大きなうねりがやってきて、
見る見る平砂浦の砂浜を洗い、相浜に向かっておしよせてきた。
そのうねりは相浜部落をひとのみにしてしまった。
一瞬多くの家屋や船も沖へさらっていってしまった。
海の上には、草屋根だけがぷかりぷかりと浮いていた。 』
と語ってくれた。
しかし津波にさらわれた人は一人もいなく、
地震も潰れた家は全潰15戸で、半潰が20戸前後であった。
死んだ人も極くわずかでたった1人であった。
津波で家を失った人たちは、学校や寺院に収容し、救護の手を待った。」
( p573~574 「館山市史」館山市史編纂委員会・昭和46年 )