竹山道雄著「ビルマの竪琴」。
この新潮文庫をとりだしてくる。
はい。ろくろく読んでいないのですが、
この新潮文庫本についてなら、
これなら、私に紹介できそうです。
まず、当然ですが小説が掲載されてます。
その後に、『ビルマの竪琴ができるまで』
として著者による14ページの文があります。
つぎに、著者による2ページのあとがき。
つぎに、中村光夫の解説が6ページ。
その後、平川祐弘の「『ビルマの竪琴』余聞」が9ページ。
あとに、牛村圭氏による8ページの注解。
さらに、本文の中で歌われたのでしょう。
唱歌などの歌詞が楽譜つきで15ページ
( 荒城の月・朧月夜・巴里の屋根の下・埴生の宿・
蛍の光・春爛漫の花の色・秋の月・からたちの花・
野なかの薔薇・嗚呼玉杯に花うけて・庭の千草・
故郷の空・都の空に東風吹きて・あふげば尊し・
海ゆかば )。
最後は、ビルマの竪琴の関係地図が1ページ。
手軽で、しかも内容が詰まったお買い得な文庫です。
わたしは小説を読まない癖に、紹介したくなるのは、
この一冊の文庫に盛り込まれた、豊かさなのでした。
う~ん。解説の、中村光夫氏の文のはじまりを引用
「『ビルマの竪琴』は昭和22年から3年にかけて、
『赤とんぼ』(実業之日本社発行)という子供の雑誌に
連載されました。・・・・・作者の竹山氏は、さかんに
活動をつづけているにもかかわらず、
以後これに類する作品を一篇も書いていません。
・・・・
『ビルマの竪琴』は、したがって、評論家竹山氏の書いた
唯一の童話、あるいは小説ということになります。
このことは次の二つのことを意味します。
ひとつは、この一篇の物語は、いわゆる童話作家でない竹山氏が、
止むに止まれぬ動機から、表現上の冒険として着手したものだ
ということ、それはあらゆる芸術上の冒険がそうであるように、
一種のぎこちなさとともに新鮮な味(あじわ)いを持っていること。
いまひとつは、ここに作者の思想は極めてひかえ目に、
ほとんど口籠りながら表現されているが、しかし、それを
訴えようとしている意図は強烈なので、作者が極力この物語が
いわゆる思想的言辞でみたされるのを避けているにもかかわらず、
読後にわれわれは、ひとつの思想小説としての感銘をうけることです。」
(p210~211)
はい。
この新潮文庫は、私のような小説を読まない方でも、
じゅうぶん細部を楽しめるテキストになっています。
たしか 小学校の教科書に出ていたように
記憶していて 大人になってからも
読んだ覚えがあります。
実話だと思っていたけれど
そうではなかったようですね。
コメントありがとうございます。
うん。実話じゃありませんでした。
それでも、新潮文庫の後の方の
『ビルマの竪琴ができるまで』に
こんな箇所がありました。
「あの物語は空想の産物です。
モデルはありません。
あれが本になってまもなく、
未知の読者から手紙がきました。
『自分の弟は姓も主人公と同じだし、
ビルマに出征していたし、
性質もよく似ているし
どうしても他人とは思えない。
弟をモデルにしたものにちがいない。
しかし、本人はいまだに生死不明である。
消息をしらせてほしい。』
ーーこのような胸をうつ手紙が
ほかにもきました。」
はい。このすぐあとに音楽の話が
でてきておりました。
nonさんには興味深いかもしれないので、
引用をつづけてみます。
「モデルはないけれども、
示唆になった話はありました。
こんなことをききました。--
一人の若い音楽の先生がいて、
その人が率いていた隊では、
隊員が心服して、弾がとんでくる中で
行進するときには、兵たちが弾のとんでくる
側に立って歩いて、隊長の身をかばった。
いくら叱ってもやめなかった。
そして、その隊が帰ってきたときには、
みな元気がよかったので、出迎えた人たちが
『君たちは何を食べていたのだ』とたずねた。
(あのころは、食物が何よりも大きな問題でした)
鎌倉の女学校で音楽会があったときに、
その先生がピアノのわきに坐って、
譜をめくる役をしていました。
『あれが、その隊長さん・・・』
とおしえられて、
私はひそかにふかい敬意を表しました。
日ぐらしがしきりに鳴いているときでしたが、
私はこの話をもとにして、
物語をつくりはじめました。」(p195)
はい。読むとさまざまに考えさせられます。
身近に置いておいてよい新潮文庫だと思います。