増谷文雄著「臨済と道元」のしめくくりは、
こうなっておりました。
「このような考え方は・・道元が、
その論理的追及によって到達したものではない。それは、あきらかに、
彼の体験的所得によるものである。だが、彼はまた考える人であった。
そして、そのかずかずの著作は、彼がその体験によって得たものを、
くまなく吟味し、拈弄し、そして表現したものであることを示している。
その吟味と表現は、おおくの禅家のなかにおいて、
まったく稀有であるとしなければならない。とくに、
『正法眼蔵』に読みいたるものは、その感をふかくするであろう。」
(p190)
はい。最後に「とくに、『正法眼蔵』に読みいたるものは」と、
これから、読む人へ、ささやきかけるようにも読めるのでした。
ここに、『拈弄(ねんろう)』とあるのですが、
それについては、こう書かれております。
「だが、道元は考える人であった。思想する人であった。
もっと適切な表現をこころみるならば、禅家にいうところの
『拈弄』することを知っていた人であった。
『拈弄』とは、わが心の掌のなかで、
ああころがし、こうころがしして、吟味することである。
ことに、日本に帰ってきて、その所得をもって人々に
語りかける立場にたつにいたった時には、道元はあらためて、
その体験的所得を吟味し、表現を与えなければならなかった。
・・・・・それを翻していうならば、禅の体験そのものは、
思想というにまったくふさわしからぬものであっても、
それが吟味され表現を与えられる段階にいたると、
やはり、それが考えられ、思想のかたちをとってくるのである。
・・・・・
考えてみると、道元がそこでいとなんでいるものは、
その体験的所得の吟味と表現である。体験がまずあって、
それが考えられ、拈弄せられ、吟味せられ、そして表現せられ
ているのである。・・」(p170~171)
さて、これから、私がすることは、
たとえば、部屋に達磨の絵をかけ、
数分でも、坐禅のまねごとをして、
そうして、『わが心の掌のなかで、
ああころがし、こうころがしして、吟味する』
その感触を、読みながら味わい体験すること。
当ブログで、またしても道元を見失うのならば、
気持が、もう他所へと移ってしまった証拠です。
今度こそはと、坐禅で『正法眼蔵』にリベンジ。
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