和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

ころがし。ころがし。

2021-02-16 | 本棚並べ
増谷文雄著「臨済と道元」のしめくくりは、
こうなっておりました。

「このような考え方は・・道元が、
その論理的追及によって到達したものではない。それは、あきらかに、
彼の体験的所得によるものである。だが、彼はまた考える人であった。

そして、そのかずかずの著作は、彼がその体験によって得たものを、
くまなく吟味し、拈弄し、そして表現したものであることを示している。
その吟味と表現は、おおくの禅家のなかにおいて、
まったく稀有であるとしなければならない。とくに、
『正法眼蔵』に読みいたるものは、その感をふかくするであろう。」
(p190)

はい。最後に「とくに、『正法眼蔵』に読みいたるものは」と、
これから、読む人へ、ささやきかけるようにも読めるのでした。

ここに、『拈弄(ねんろう)』とあるのですが、
それについては、こう書かれております。

「だが、道元は考える人であった。思想する人であった。
もっと適切な表現をこころみるならば、禅家にいうところの
『拈弄』することを知っていた人であった。
『拈弄』とは、わが心の掌のなかで、
ああころがし、こうころがしして、吟味することである。

ことに、日本に帰ってきて、その所得をもって人々に
語りかける立場にたつにいたった時には、道元はあらためて、
その体験的所得を吟味し、表現を与えなければならなかった。
・・・・・それを翻していうならば、禅の体験そのものは、
思想というにまったくふさわしからぬものであっても、
それが吟味され表現を与えられる段階にいたると、
やはり、それが考えられ、思想のかたちをとってくるのである。
 ・・・・・

考えてみると、道元がそこでいとなんでいるものは、
その体験的所得の吟味と表現である。体験がまずあって、
それが考えられ、拈弄せられ、吟味せられ、そして表現せられ
ているのである。・・」(p170~171)

さて、これから、私がすることは、
たとえば、部屋に達磨の絵をかけ、
数分でも、坐禅のまねごとをして、
そうして、『わが心の掌のなかで、
ああころがし、こうころがしして、吟味する』
その感触を、読みながら味わい体験すること。

当ブログで、またしても道元を見失うのならば、
気持が、もう他所へと移ってしまった証拠です。
今度こそはと、坐禅で『正法眼蔵』にリベンジ。


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