和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

細部にやどる。

2022-04-28 | 前書・後書。
講談社学術文庫に、尾形仂の本があり、
きちんと読まない癖して、「座の文学」と「歌仙の世界」
この2冊が気になって単行本を注文。古本で安かったし。

単行本もだと、読む楽しみに弾みがつきます。
なんといいましょうか。本文は読まない癖に。

さてっと、単行本「座の文学」(角川書店・昭和48年)
箱入りでした。題字は先輩の加藤楸邨氏による揮毫。
その題字の紙の裏。左下に小さく記されていたのが、
「本書を空爆の犠牲となった両親の霊にささぐ」。
これは、文庫本にはありませんでした。かわりに
文庫本の解説で触れられておりました。

つぎは、「歌仙の世界」(講談社・昭和61年)。
これは、「詩歌 日本の抒情」全8巻の7巻目として出されております。
函入りで、本には月報が挟まっておりました。大岡信・飯田龍太対談。
対談の、はじまりが忘れがたいので引用しておくことに。
対談の題は「連歌の面白さと室町の時代背景」でした。

大岡】 ・・・勅撰和歌集は21代集のところでおしまいになってしまった。
   鎌倉、室町時代は、勅撰集はそれを編纂する地下(じげ)の、
   プロの歌人達の争いの場にもなって、誰々が撰者になって自分が
   なれないのはけしからんとか、そういう争いが絶えずあるわけです。

   それで肝心のいい歌が少なくなってくる。・・・・実際にはもう
   いい歌もないから歌集を編むわけにもいかない、一人で全巻、
   自作でうめるわけにもいかないと。

   そこで連歌に新たな意味が出てくる。一人で出来ないなら
   二人ないし三人でやったらどうかというわけですね。
   そういう意味では連歌は、一種の緊急の和歌救出手段として
   価値を再発見された大変な代物だったと思いますね。
    ・・・・・・
    ・・・・・・
   たった一人の作者ではもうもたなくなっているんですね。
   それは『玉葉集』『風雅集』の、すぐれた、するどい
   感受性の歌が、同時にとてもさみしい歌であるという
   ことからもはっきりうかがえると思うので、
   これが室町の連歌の発生にとって必然的な時代の
   動きだったような気がします。


はい。月報の対談は、このようにしてはじまる8ページ。
うん。読ませます。
はい。これで楽しく本文が読みすすめられますように。


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2 コメント

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こんばんは(^^♪ (のり)
2022-04-28 20:25:24
あら、こちらは本文をお読みになるのですね(^_-)  それでは、楽しみにしております。
返信する
うん。 (和田浦海岸)
2022-04-29 09:19:17
おはようございます。のりさん。
コメントありがとうございます。

あまり楽しみには、しないで下さい。
なかなか、期待通りには運びません。
気ままな楽しみの舵取は全くもって、
連敗しております。失敗してもまた、
打ち上げる紙風船の願い事のように。
そんな気持ちがつい出てしまいます。
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