藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社)に
『遅筆の梅棹さん』とある。短いので引用。
「『遅筆の梅棹さん』の評判は、わたしなどがくる前から、
知る人ぞ知る、有名な事実だったのである。」(p238)
はい。こういうのなんて新書の「知的生産の技術」を
読んでも気づきにくい。けれど、藤本さんは、
じつは、新書のなかにも書かれていると指摘します。
それは、新書の第11章「文章」にありました。
「失文症や文章アレルギーの人を、どうしたら
すくうことができるのか、それはわたしにもわからない。
まるで、ひとごとのようないいかたをしているが、
じつは、わたし自身がそういうタイプにちかいのである。
どちらかというと、行動的なほうであるせいか、
文章をかくのは、正直のところ不得意である。
仕事の性質上、しばしば文章をかかねばならないことになるのだが、
そのつど、たいへんくるしいおもいをする。原稿用紙をまえにして、
おおげさにいえば、七転八倒する。結果的には、ひじょうな
遅筆ということになって、編集者にめいわくをかけがちである。」
(p199)
この箇所について、藤本さんは語ります。
「先生が原稿を執筆されるのは、自宅の書斎である。
だから、わたしは、執筆中の先生の姿を見たことはない。
ただ、たいへん苦しい思いをなさるらしいことは
しめきりのぎりぎりのところにくると、よく脈が
結滞して医者にかかられることからも、察せられた。
本人も『知的生産の技術』のなかで・・・
七転八倒すると、告白しておられる。ところが、
本人はそういっているのに、読者はそうは思わない。」
(p238~239)
はい。新書読者の私も、やはりそうは思わなかった。
このあとに、藤本さんは加藤秀俊氏を引き合いに出しております。
「きくところによれば、加藤先生は、なんであれ、
原稿のしめきりにおくれたことのないかたで、その点からいえば、
梅棹先生とは対照的な存在である。」(p239)
はい。加藤秀俊氏といえば、ある一場面を記録されております。
「北白川の梅棹邸には、わたしをふくめて、何人も足をはこび、
深更にいたるまで、きわめて雑多な議論をつづけた。
例外なしに酒を飲んだ。米山俊直、石毛直道、谷泰そして、
ややおくれて松原正毅――いろんな人物が入り乱れた。
そんなある晩、突如として伊谷純一郎さんがとびこんできた。
何の論文だったか忘れたが、梅棹さんの原稿だけがおくれている
ために本が出ない、早く書け、というのが伊谷さんの用件であった。
梅棹さんは、大文章家であるが、執筆にとりかかるまでの
ウォーミング・アップの手つづきや条件がなかなかむずかしいかたである。
一種のキツネつき状態になって、そこではじめて、あの名文ができあがる。
伊谷さんもそのことはご存知だ。ご存知であっても、
梅棹論文がなければ本ができないのであるから、これもしかたがない。
その伊谷さんにむかって、梅棹さんは、
あとひと月のうちにかならず書く、といわれた。
伊谷さんは、その場に居合わせたわたしをジロリと睨み、
加藤君、おまえが証人や、梅棹は書く、と言いよった。
おまえは唯一の証人やで、とおっしゃるのであった。
わたしは梅棹さんが、絶対に書かないという信念を持ちながら、
伊谷さんには、ハイ、と返事をした。
その原稿がどうなったか、わたしは知らない。」
(p84「わが師わが友」にある、社会人類学研究班の章)
新書の『知的生産の技術』が、私には、
脈打ち、立ちあがるような気がします。
しばらくブログを休んでいたので、
再開に際してちょうど思い浮かぶ、
そんな気持ちで、とりあげました。