和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

まあ、そんなとこかな。

2021-07-17 | 本棚並べ
藤本ますみ著「知的生産者たちの現場」(講談社・1984年)。
はい。この本を再読。

はじめて読んだときは、楽しかった。
それが再読をはじめたらまた楽しい。

とりあえずは、藤本ますみさんと梅棹忠夫氏の接点。
1966年1月に梅棹研究室へ。1974年6月に研究室が閉鎖し、
それとともに、退職。

ちなみに、就職していた頃には、
1969年7月に「知的生産の技術」(岩波新書)が出る。
1970年9月に、日本万国博が幕を閉じる。
1974年6月、国立民族学博物館が創設にともない、梅棹研究室閉鎖。
その間の9年間のことが綴られております。
藤本さんは語ります。

「1966年1月、スタートしたばかりの梅棹研究室は、
お店にたとえれば、主人に番頭、そして女中の3人
できりまわす零細企業梅棹商店といったところであった。」
(p251)

はい。今回は、そこへ就職する場面から

「新卒の就職1年生ではない。学校を出てから7年間はたらいて
きた栄養士の仕事を3日前にやめて、秘書になることにきまった
・・つとめる先は京都大学人文科学研究所分館、社会人類学研究室。
主任教授は梅棹忠夫先生である。」(p11)

「18歳で、栄養士になってはたらこうときめてこの道にはいったわたしは、
自分が栄養士以外の仕事で転職することなど、夢にも考えたことがない。
・・・仕事のためにやむをえず京都と福井に別居していたわたしたち夫婦は、
2週間に1度ぐらいの割で、夫が福井に帰ってくる生活をかれこれ2年あまり
続けていた。」(p42)

秘書になることに、とまどう藤本さんは、決断しかねて、
「どんなことをすればいいんですか」と質問します。
はい。梅棹忠夫氏は、それに答えて。

『それはね、たとえばここにあるひらかなタイプで手紙をうってもらうとか、
ファイリング・システムで書類を整理してもらうとか、
こまごましたことがいくらでもある。

しかし、そういう技術的なことは、
あまり気にしなくてよろしい。
技術はけいこすれば、じきにできるようになります。

それより大事なことは、秘書には自分で仕事を
見つけてやってもらいたいということやな。

ぼくは秘書にいちいち、これこれのこと、
いつまでにやっておいてくれと、命令したりはしないから。

秘書になってくれる人にのぞみたいことは、
知的好奇心があって、腰かけでなく、責任をもって
はたらいてもらいたいということ。

まあ、そんなとこかな』(p55)

雄大な注文です。ここで使われている、
『技術』という言葉に、注目しました。

『技術はけいこすれば、じきにできるようになります』。
はい。その3年後『知的生産の技術』が出版されました。

わたしには、『知的生産の技術』をどう読めばよいのかの、
勘どころをそっと教えてもらったような気がするのでした。
いわく

『技術的なことは、あまり気にしなくてよろしい』

『のぞみたいことは、知的好奇心があって、
腰かけでなく、責任をもってはたらいてもらいたい』

ということで、『知的生産の技術』をまたひらくことに。




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