和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

わずか梢(こずえ)に散りのこる。

2023-09-28 | 詩歌
松永伍一著「子守唄の人生」(中公新書)をとりだしたら、読まずに次は、
武石彰夫著「仏教讃歌集」(佼成出版社・平成16年)を本棚からとりだす。

そのはじめには、こんな箇所がありました。

「仏教が日本人の精神に受容されるとともに、
 日本語の讃歌として讃嘆、和讃が生まれ、
 法会の歌謡として教化(きょうけ)、訓伽陀(くんかだ)が生まれて、
 仏教は完全に日本人の心の奥に育っていったのである。

 とくに和讃は、広く民衆信仰のなかに下降し、芸能にも影響を与え、
 また、念仏讃や民謡とも交わりながら、国内各地に広まった・・

 だが残念なことには、広く一般の方々にとって、これらの
 仏教讃歌は縁遠く、また気軽に読める本も見当たらない。・・」(p2)

はい。この本、まさに気軽に読める本になっておりました。
はい。普段は読まない癖して、本棚にあると安心する一冊。

ということで、今日は「無常和讃」を引用してみることに。

 「  紅顔(こうがん)往きて還えらねば
    衰老(すいろう)来たりて且(かつ)さらず 」

という印象深いフレーズがあるのでした。
全文を引用してみることに。

「 凡そ諸行は無常にて
  これ生滅の法とかや
  万法ともにあとなきは
  水に映せば影にして
  
  紅顔往きて還えらねば
  衰老来たりて且さらず
  鏡をてらし眺むれば
  知らぬ翁の影なれや

  面にたたむなみの紋
  腰におびたるあづさ弓
  頭の雪や眉の霜
  
  四季の転変身に移り
  眼に春の霞たち
  耳には秋の蝉のこえ
  
  身の一重なる皮衣
  夏の日にまし黒みつつ
  肌はかじけ冬の夜の
  さむき嵐や荒屋(あばらや)の   
  筋骨あれてあさましき

  行くもかえるも千鳥足
  鳩の杖にし助けられ
  老曾(おいそ)の森の老いぬれば
  若きはうときいつしかに
  兒(ちご)に帰りておのずから
  智慧の鏡もくもりつつ
  もとの姿もいづち行き
  盛りの色はうつろひて 
  わずか梢に散りのこる
  花の嵐を待つ命
  徒(あだ)なる老の隠れ家を
  とやせんかくと計(はか)らうは
  雪の仏のいとなみの
  やがてはかなき例(たとえ)なり
  さりとて罪の器とは
  知らで愛するこの身にも
  仏の種は備へつと
  説ける御法の花の枝に
  結ぶ誓ぞたのもしき          」(p34~37)


はい。このあとに武石氏の鑑賞がのっているので、
私みたいな素人にもわかりやすい。
鑑賞の後半を引用しておくことに。

「紅顔(元気な少年の顔)から衰老へ、
 いつのまにかやってくる老いの浪、
 その姿をあざやかに述べる。

『 腰におびたるあづさ弓 』は、腰のまがった姿のたとえ、
 四季の移り変わりを老いの身になぞらえている。

『 鳩の杖 』は、むかし宮廷から老臣に慰労のために贈った。
 頭の部分に鳩の飾りをつけた老人用の杖、
 鳩は飲食のときむせないといわれ、老人の健康を祈る意味がある。

『 老曾(おいそ)の森 』は、滋賀県蒲生郡安土(あづち)町にある
 奥石(おいそ)神社の森。ほととぎすの名所。
 古社。歌枕。ここは、『老い』を導き出すためのもの。

『 雪の仏 』は、はかなく消えるもののたとえ。
『 徒然草 』(百六十六段)に、
『 世の中で、それぞれに精出してやっている事を見ると
  春の日に雪仏をこしらえて、その雪仏のために、
  金銀珠玉のかざりを骨おってほどこし、それを納める
  お堂を建てようとするのとよく似ている 』とある。

 末尾五句は重い。
 罪を背負ったわが身にも『仏の種』(仏となるための種子、仏性)はある。
 『維摩(ゆいま)経』には、煩悩の他にさとりはないから、
 あらゆる間違った見解や煩悩こそが仏種であると説く。・・・  」(p39)


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