和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

花のほかには松ばかり

2006-08-26 | Weblog
山村修著「花のほかには松ばかり」(檜書店)が出ておりました。
さっそく買って読んでおります。
ということで、読みながら思いついたこと。

現在、読売新聞朝刊の土曜日に連載されているドナルド・キーンの「私と20世紀のクロニクル」。その7月29日では、1957年に東京と京都でおこなわれた国際ペンクラブ大会のことがでておりました。
そこにこんな箇所があったのです。
「全員を感動させた唯一の文化的行事は、能の上演だった。ところが上演が終了するや、記者たちはそれぞれの代表を取り巻き、『さぞ、退屈なさったでしょう』と質問するのだった。自分たちにとって退屈極まる芸術が、まさか外国人にわかるなどとは想像も出来ないのだった。」

なぜ、この箇所を思い起こしているかというと、
山村修著「花のほかには松ばかり」の最初の文に
田代慶一郎著「謡曲を読む」のことがでてきたからです。
そこで山村さんは田代さんの本を
「『見る能』から『読む能』を独立させて研究することを試みた一冊でした。
その精緻な読みかたから、私はたくさんのことを教えられました」とありました。

さて、その田代慶一郎の「謡曲を読む」(朝日選書)の帯は
ドナルド・キーンさんが書いておりました。
どう書いていたかというと、
「謡曲がすばらしい文学であることには異論がなかろうが、現在でも文学として鑑賞する評論家は少なく、文学として謡曲を読もうとする一般読者は、誰が誰に対してものを言っているという基本的な知識を教えてくれるテキストに恵まれていない。田代氏は文学作品として謡曲を取り上げ、日本文学の中で最高の演劇文学に新しい光を投げかけてくれる。」
とあったのです。

その本のあとがきで、田代氏はこう打ちあけておりました。
「私が謡曲に興味を持ったのは、奇妙なことだが、フランスにいたときのことである。
・・・
私はウェイリー訳するところの英訳謡曲数篇には深い感銘を受けた。
特に英訳『景清』を読んだときの感動は今でもあざやかに覚えている。・・・」


さて、
能の上演を鑑賞した外国人に
「さぞ、退屈なさったでしょう」と当然のように質問する日本人記者。
それは1957年のことでしたが、今はどうでしょう。
そして、フランスで謡曲に感動した田代慶一郎氏。

ドナルド・キーン氏は、田代氏の本の帯で
「誰が誰に対してものを言っているという基本的な知識を教えてくれる
テキストに恵まれていない。」と1987年に書いておりました。

2006年8月10日第一刷発行とある
山村修著「花のほかには松ばかり 謡曲を読む愉しみ」(檜書店)は
1900円で発売になっております。

山村修著「狐が選んだ入門書」(ちくま新書)は生前最後の本でした。
そこには25冊の入門書が紹介されておりました。
ひょっとしたら、今回紹介する本が26冊目の入門書だったのかもしれない。
そんなことを思いながら、読んでおります。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする