和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

卒業と結末。

2008-05-05 | Weblog
堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫・古本)を読みました。
読みやすい。これ大正4年(1915)に刊行された本だそうです。
現在の、関連本より、簡潔端的で分かりやすい。
分かりやすすぎて、ありがたみがないほどに、スラスラと読めます。
かえって、現代の本のほうが読みにくいかもしれないという疑問さえ思い浮かぶほどです。さて、ここでは一箇所引用してみます。

結末についてでした。

「・・次に結末は幕切れであり、別れの挨拶であり、総勘定であり、尻の結びであるから、何とかそこに一趣向ありたいものである。これまでだんだんと書きつづけ書きひろげてきたことを、最後にギュッと一締め締め上げて、それで全文の揺ぎを防ぐというも一つ。またせっかく引きつけた読者の心を、それきりすぐに逃さぬよう釘を打つとか、鎹(かすがい)を打つとか、ないしは一瞥の秋波(しゅうは)を送るとかするのも一つ。余情、余韻というのも、つまりこの秋波のごとき結末の趣を指すので、言い尽くさず、語り尽さず、思いを人の胸に残さしめる手段である。」(p55~56)


この箇所を読んだ時に、私が思い浮べたのは、1971年の清水幾太郎著「私の文章作法」でした。そこには時代背景も違うからでしょうが、こうあります。
「最近の諸雑誌に載っている論文・・・を見ておりますと、最初の部分に『はじめに』という見出しがあり、また最後の部分に『おわりに』という見出しがついていることが多いようです。いつか、一つの型が出来てしまったのでしょう。私は、あれが大嫌いなのです。特に調べたことはありませんが、例の当用漢字が決定され、それが強制されて行く過程、つまり、幼稚園的民主主義が伸びて行く過程で生れたパターンのように思われます。・・・文章が終る時は、もう書くのが厭になったから、または、もう書くことがなくなったから終るのです。・・大切なのは本論です。というより、本論だけが大切なのです。立派な短篇小説に、『はじめに』や『おわりに』はありません。第一行から本論で、本論でないものは一行も含まれていません。それは小説だから・・・とおっしゃるのですか。いいえ、そもそも、短編小説と短編論文とをやたらに区別するのがいけないのです。」(p116~119・中公文庫)

どちらの本も、両方比較して読むと面白そうです。
ところで、話題がかわるのですが、
毎日新聞2008年3月30日の歌壇俳壇に、短歌「桜競詠」という特集がありました。
その最初に佐佐木幸綱の「送る」という2首がありました。そのはじめの一首。

 卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて

「木」といえば、佐佐木信綱に

 山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも

という歌がありました(これ窪田空穂の短歌紹介にも取り上げられておりました)。

「卒業」と「立つ木の心にて」と二つは感慨深いのですが、
さて、この二つをどう結びつけたらよいのか、そんなことを思ったのでした。
堺利彦著「文章速達法」の第十章は「最後の一言(いちげん)」とあります。
文庫で3ページほどです。そこを引用してみます。

「最後に一言す。文章は誰にでも書けるものだから誰でも書くがいい。しかし本当に上手に書こうと思うなら一生涯稽古する覚悟が必要である。著者は46歳の今日、なお毎日作文の稽古をしている。著者はもちろん、多少文章をよく書き得(う)るという自信を持っている。しかしそれでいて、俺はとても駄目だと思って、筆を投じて嘆息する場合がしばしばある。」

こうはじまり。最後は、こう終っておりました。

「今一度繰り返す。文章は誰にでも書ける。心の真実を率直に大胆に表すことを勉めさえすれば、文章は必ず速やかに上達する。文章速達の秘訣はその外にない。しかし文章は一生の事業である。いつまで経っても卒業する時は決してない。」


ここであらためて、短歌を読み直してみるのでした。


 卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて
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草森紳一。

2008-05-05 | Weblog
評論家・草森紳一氏の本は読んだことがありませんでした。
週刊新潮2008年4月17日号のp143に「本の山で発見が遅れた『草森紳一氏』」という見出しの記事が掲載されておりました。推定死亡日は3月20日。心不全。享年70歳。
では、記事から引用。

 雑誌『エンタクシー』編集長の壹岐真也氏によれば、『19日に原稿を受け取る約束だったのですが、連絡がつかず20日朝、マンションに伺いました。玄関は開いていましたが返事はなく、本が崩れるため中には入って欲しくないと聞いていたので、そのまま帰りました』28日夜、各社の担当編集者4人が訪ねたが、本が邪魔になって所在を確認できなかったという。翌朝、芸術新聞社の編集者2人が、2LDKの手前の部屋で倒れていた草森さんを発見した。『一人暮らしでしたから、連絡がなければこういうこともあるかもしれないとは思っていました』・・・

そういえば、2005年に文春新書で草森紳一著「随筆 本が崩れる」が出ておりました。たしか買って50㌻ほど読んで放り投げてしまったのですが、どこかにあったなあと思っておりました。しばらくしてから何げなくも見つかりました。死亡記事でもって、現場の2LDKの様子を、新書で読み返したくなる。なんて不思議ですが。しかも、この新書が何やら死亡予告というか、虫の知らせめいております。あらためて半分ほど読み直し内容が、私にもようやくわかってきました。
2LDKの本の山の説明は、やめときます。
新書には、写真入で、文章にも部屋の本の様子がわかるように書かれております。
興味深かったのは、「資料もの」について草森さんが書かれている箇所でした。
すこしながくなりますが、ぜひ引用しておきます。

「いわゆる『資料もの』といわれる仕事をするようになってからは、ねずみ算式に増殖していく。『資料もの』というのは、私の場合、過去の歴史にかかわるもので、たとえば『中国の食客』とか『フランク・ロイド・ライト』とかいう『テーマ』が自分の中で発生すると、ぽつりぽつりと関連の本をあてもなく買いつづける。十年二十年たっても、集中して資料集めしているわけでないので、二百冊にもならないが、これくらい読むとそれなりに考えがまとまってきて、まず仕事としての機が熟してくる。見切り発車してもよい汐時である。ところが、いざ仕事を開始するの段になると、一面、まったくそれらの資料は役に立たない。役立てては、その仕事がお粗末な結果になると、経験から知っている。自分の世界にテーマを引き込むためには、それらは切り棄て資料となる。それまでに手にはいらなかった基礎資料の問題もいらだたせるが、もっと重要になってくるのは、むしろ関連資料である。こうなると無限大の増殖世界である。基礎資料、重要資料を生かすのは、むしろこれらの関連資料、こそなのである。この世の中は、有機構造であるから、すべてが資料となってくる。・・・」(p30~31)


「資料調べは、それ自体が、書くこと以上に楽しい。が、しばしば役に立つかどうかもわからぬ資料の入手のため、たえず破産寸前に追いこまれる。」(p34)

あっ、それから、
この新書で印象深かったのは草森紳一氏が写っている写真。
年代の推移が写真とともにたどれます。今見ると追悼写真版とも思える資料価値。
草森氏は昭和13(1938)年生まれ。
1971年の写真は雪駄に裸足。レインコートで坪内祐三ばりのカッコイイ若者という感じ(p264)
1981年の写真はだいぶ髪がもじゃもじゃとなり長髪。
2005年の写真は帽子をかぶりその脇から白髪がのぞいている立ち姿(p278)。
そして死亡記事が載った週刊誌の写真は講演会でのすわって語る姿。こちらは、帽子をかぶってはおりませんでした。


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