堺利彦著「文章速達法」(講談社学術文庫・古本)を読みました。
読みやすい。これ大正4年(1915)に刊行された本だそうです。
現在の、関連本より、簡潔端的で分かりやすい。
分かりやすすぎて、ありがたみがないほどに、スラスラと読めます。
かえって、現代の本のほうが読みにくいかもしれないという疑問さえ思い浮かぶほどです。さて、ここでは一箇所引用してみます。
結末についてでした。
「・・次に結末は幕切れであり、別れの挨拶であり、総勘定であり、尻の結びであるから、何とかそこに一趣向ありたいものである。これまでだんだんと書きつづけ書きひろげてきたことを、最後にギュッと一締め締め上げて、それで全文の揺ぎを防ぐというも一つ。またせっかく引きつけた読者の心を、それきりすぐに逃さぬよう釘を打つとか、鎹(かすがい)を打つとか、ないしは一瞥の秋波(しゅうは)を送るとかするのも一つ。余情、余韻というのも、つまりこの秋波のごとき結末の趣を指すので、言い尽くさず、語り尽さず、思いを人の胸に残さしめる手段である。」(p55~56)
この箇所を読んだ時に、私が思い浮べたのは、1971年の清水幾太郎著「私の文章作法」でした。そこには時代背景も違うからでしょうが、こうあります。
「最近の諸雑誌に載っている論文・・・を見ておりますと、最初の部分に『はじめに』という見出しがあり、また最後の部分に『おわりに』という見出しがついていることが多いようです。いつか、一つの型が出来てしまったのでしょう。私は、あれが大嫌いなのです。特に調べたことはありませんが、例の当用漢字が決定され、それが強制されて行く過程、つまり、幼稚園的民主主義が伸びて行く過程で生れたパターンのように思われます。・・・文章が終る時は、もう書くのが厭になったから、または、もう書くことがなくなったから終るのです。・・大切なのは本論です。というより、本論だけが大切なのです。立派な短篇小説に、『はじめに』や『おわりに』はありません。第一行から本論で、本論でないものは一行も含まれていません。それは小説だから・・・とおっしゃるのですか。いいえ、そもそも、短編小説と短編論文とをやたらに区別するのがいけないのです。」(p116~119・中公文庫)
どちらの本も、両方比較して読むと面白そうです。
ところで、話題がかわるのですが、
毎日新聞2008年3月30日の歌壇俳壇に、短歌「桜競詠」という特集がありました。
その最初に佐佐木幸綱の「送る」という2首がありました。そのはじめの一首。
卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて
「木」といえば、佐佐木信綱に
山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも
という歌がありました(これ窪田空穂の短歌紹介にも取り上げられておりました)。
「卒業」と「立つ木の心にて」と二つは感慨深いのですが、
さて、この二つをどう結びつけたらよいのか、そんなことを思ったのでした。
堺利彦著「文章速達法」の第十章は「最後の一言(いちげん)」とあります。
文庫で3ページほどです。そこを引用してみます。
「最後に一言す。文章は誰にでも書けるものだから誰でも書くがいい。しかし本当に上手に書こうと思うなら一生涯稽古する覚悟が必要である。著者は46歳の今日、なお毎日作文の稽古をしている。著者はもちろん、多少文章をよく書き得(う)るという自信を持っている。しかしそれでいて、俺はとても駄目だと思って、筆を投じて嘆息する場合がしばしばある。」
こうはじまり。最後は、こう終っておりました。
「今一度繰り返す。文章は誰にでも書ける。心の真実を率直に大胆に表すことを勉めさえすれば、文章は必ず速やかに上達する。文章速達の秘訣はその外にない。しかし文章は一生の事業である。いつまで経っても卒業する時は決してない。」
ここであらためて、短歌を読み直してみるのでした。
卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて
読みやすい。これ大正4年(1915)に刊行された本だそうです。
現在の、関連本より、簡潔端的で分かりやすい。
分かりやすすぎて、ありがたみがないほどに、スラスラと読めます。
かえって、現代の本のほうが読みにくいかもしれないという疑問さえ思い浮かぶほどです。さて、ここでは一箇所引用してみます。
結末についてでした。
「・・次に結末は幕切れであり、別れの挨拶であり、総勘定であり、尻の結びであるから、何とかそこに一趣向ありたいものである。これまでだんだんと書きつづけ書きひろげてきたことを、最後にギュッと一締め締め上げて、それで全文の揺ぎを防ぐというも一つ。またせっかく引きつけた読者の心を、それきりすぐに逃さぬよう釘を打つとか、鎹(かすがい)を打つとか、ないしは一瞥の秋波(しゅうは)を送るとかするのも一つ。余情、余韻というのも、つまりこの秋波のごとき結末の趣を指すので、言い尽くさず、語り尽さず、思いを人の胸に残さしめる手段である。」(p55~56)
この箇所を読んだ時に、私が思い浮べたのは、1971年の清水幾太郎著「私の文章作法」でした。そこには時代背景も違うからでしょうが、こうあります。
「最近の諸雑誌に載っている論文・・・を見ておりますと、最初の部分に『はじめに』という見出しがあり、また最後の部分に『おわりに』という見出しがついていることが多いようです。いつか、一つの型が出来てしまったのでしょう。私は、あれが大嫌いなのです。特に調べたことはありませんが、例の当用漢字が決定され、それが強制されて行く過程、つまり、幼稚園的民主主義が伸びて行く過程で生れたパターンのように思われます。・・・文章が終る時は、もう書くのが厭になったから、または、もう書くことがなくなったから終るのです。・・大切なのは本論です。というより、本論だけが大切なのです。立派な短篇小説に、『はじめに』や『おわりに』はありません。第一行から本論で、本論でないものは一行も含まれていません。それは小説だから・・・とおっしゃるのですか。いいえ、そもそも、短編小説と短編論文とをやたらに区別するのがいけないのです。」(p116~119・中公文庫)
どちらの本も、両方比較して読むと面白そうです。
ところで、話題がかわるのですが、
毎日新聞2008年3月30日の歌壇俳壇に、短歌「桜競詠」という特集がありました。
その最初に佐佐木幸綱の「送る」という2首がありました。そのはじめの一首。
卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて
「木」といえば、佐佐木信綱に
山の上にたてりて久し吾もまた一本の木の心地するかも
という歌がありました(これ窪田空穂の短歌紹介にも取り上げられておりました)。
「卒業」と「立つ木の心にて」と二つは感慨深いのですが、
さて、この二つをどう結びつけたらよいのか、そんなことを思ったのでした。
堺利彦著「文章速達法」の第十章は「最後の一言(いちげん)」とあります。
文庫で3ページほどです。そこを引用してみます。
「最後に一言す。文章は誰にでも書けるものだから誰でも書くがいい。しかし本当に上手に書こうと思うなら一生涯稽古する覚悟が必要である。著者は46歳の今日、なお毎日作文の稽古をしている。著者はもちろん、多少文章をよく書き得(う)るという自信を持っている。しかしそれでいて、俺はとても駄目だと思って、筆を投じて嘆息する場合がしばしばある。」
こうはじまり。最後は、こう終っておりました。
「今一度繰り返す。文章は誰にでも書ける。心の真実を率直に大胆に表すことを勉めさえすれば、文章は必ず速やかに上達する。文章速達の秘訣はその外にない。しかし文章は一生の事業である。いつまで経っても卒業する時は決してない。」
ここであらためて、短歌を読み直してみるのでした。
卒業の君らを送る 青空に花かかげ立つ木の心にて