映画「ジョーカー」を映画館で見てきました。
「バッドマン」でのジャック・ニコルソン、「ダーク・ナイト」のヒース・レジャーの2人が演じたジョーカーはいずれもすごい存在感があった。いずれも映画史を代表する傑作である。その2人の面影を心に持ちながら、映画館に向かう。ここでは1人のさえないコメディアンが狂人ジョーカーになっていく過程を描く。ホアキン・フェニックスのワンマンショーといってもいいだろう。ロバート・デニーロが有名ニュースキャスター役で登場する。監督は「ハングオーバー」のトッド・フィリップスがつとめる。
重厚感のある映画である。映像に迫力がある。音楽も肝心なところで響き渡るが、いやらしさはない。架空の都市ゴッサムシティではあるが、70年代前後のニューヨークを意識していることは明白、ネットや携帯電話とは無縁の一時代前を舞台にする。
地下鉄内での格闘が最初のヤマ、一時代前のニューヨークの地下鉄である。映像が進むにつれ徐々に緊迫感が高まりジョーカーが銃を取り出すところで、心臓の鼓動が高鳴る響きを感じる。ヤマはそれだけでない。二重三重に波をうつ。構成的にはお見事である。傑作だと思う。
孤独な男アーサー(ホアキン・フェニックス)は、「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを目指している。介護している母親は若干ボケが入っている。若い頃、母は大富豪のウェイン家で働いたことがあり、生活苦を訴え手紙を書いているが、返信はない。笑いが止まらない病気をもち、繊細で不器用なアーサーは周囲になめられている。しかも、本人が悪くない不祥事に対しても周囲は厳しい。
同僚から押し付けられ持っていた拳銃を子供たちの目の前で落としてしまい、大道芸人の仕事をクビになる。ピエロメイクのまま地下鉄に乗って帰宅途中に、絡んできた男性3人を撃ち殺してしまう。しかし、その後何もなかったように月日は流れる。同じアパートに暮らす黒人女性のシングルマザーであるソフィーに密かに好意を寄せながらコメディアンとしてステージにも立てた。
そのパフォーマンスが注目され、人気テレビキャスターであるマーレイ・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務める、憧れのトークバラエティ番組への出演依頼が届くのであるが。。。
この映画ではジョーカーことアーサーは黒人のシングルマザーに心を寄せる。偶然だが、ブログアップしたばかりの映画「パリに見出されたピアニスト」でも主人公は黒人女性と恋人関係にある。ここに来て、人種の境を超えることが諸外国では普通になってきたのであろうか?
1.ピストル
ピエロの格好といってもサーカスというわけではない。街頭での呼び込み宣伝のようなものだ。昔で言えば、チンドン屋が近いか。街頭でパフォーマンスをしていたら不良少年たちに看板を取られてしまう。懸命に追うが、看板はつぶされてしまう。そんな悲惨な姿からスタートだ。事務所の幹部からは怒られ最悪である。それを見かねた同僚がピストルをアーサーに預ける。周囲になめられないようにということだ。このピストルが映画の最後まで重要なツールになるのだ。
2.バッドマンとウェイン家
ジョーカーのルーツ話に対して、バッドマンのルーツも語られる。ジョーカーことアーサーの母親は若い頃、バッドマンことブルースウェインのウェイン家で奉公をしていたようだ。アーサーの母親は若干妄想癖があり、アーサーはあなたの息子だとブルースの父親トーマス・ウェインに手紙を書いている。手紙をのぞきみて、もしかして自分はウェイン家の息子だったのかと乗り込んでいく場面がある。でもこれも真相がわかっていき、怒りをいろんな方向にぶつけるようになる。
3.覆面デモ
貧富の差の激しさに対して、立ち上がろうとするデモが繰り広げられている。ウェインの経営する証券会社で働くエリートビジネスマンが3人殺される。目撃した人によると、犯人はピエロのような風貌だという。世論ではリッチマンが銃で撃たれたことに支持する新聞記事が多い。格差に反発したデモは増長する。
みんながピエロの覆面をしている。いかにも香港の若者が中国当局や香港政府に反発するデモを連想される。当然、そんなこととは関係せず映画は作られている。公開と重なるタイミングで香港で覆面禁止となったのがすごい偶然である。これってタイムリーだ。
「クリーム」のホワイトルームが最終に近い場面で高らかに流れる。ジャック・ブルースのリードボーカルに、若干音痴な歌をきかせるエリック・クラプトンのボーカルが続く。ホワイトというのはジョーカーのメイクを意識しているのか効果的な使われ方をしている。
「バッドマン」でのジャック・ニコルソン、「ダーク・ナイト」のヒース・レジャーの2人が演じたジョーカーはいずれもすごい存在感があった。いずれも映画史を代表する傑作である。その2人の面影を心に持ちながら、映画館に向かう。ここでは1人のさえないコメディアンが狂人ジョーカーになっていく過程を描く。ホアキン・フェニックスのワンマンショーといってもいいだろう。ロバート・デニーロが有名ニュースキャスター役で登場する。監督は「ハングオーバー」のトッド・フィリップスがつとめる。
重厚感のある映画である。映像に迫力がある。音楽も肝心なところで響き渡るが、いやらしさはない。架空の都市ゴッサムシティではあるが、70年代前後のニューヨークを意識していることは明白、ネットや携帯電話とは無縁の一時代前を舞台にする。
地下鉄内での格闘が最初のヤマ、一時代前のニューヨークの地下鉄である。映像が進むにつれ徐々に緊迫感が高まりジョーカーが銃を取り出すところで、心臓の鼓動が高鳴る響きを感じる。ヤマはそれだけでない。二重三重に波をうつ。構成的にはお見事である。傑作だと思う。
孤独な男アーサー(ホアキン・フェニックス)は、「どんな時も笑顔で人々を楽しませなさい」という母の言葉を胸にコメディアンを目指している。介護している母親は若干ボケが入っている。若い頃、母は大富豪のウェイン家で働いたことがあり、生活苦を訴え手紙を書いているが、返信はない。笑いが止まらない病気をもち、繊細で不器用なアーサーは周囲になめられている。しかも、本人が悪くない不祥事に対しても周囲は厳しい。
同僚から押し付けられ持っていた拳銃を子供たちの目の前で落としてしまい、大道芸人の仕事をクビになる。ピエロメイクのまま地下鉄に乗って帰宅途中に、絡んできた男性3人を撃ち殺してしまう。しかし、その後何もなかったように月日は流れる。同じアパートに暮らす黒人女性のシングルマザーであるソフィーに密かに好意を寄せながらコメディアンとしてステージにも立てた。
そのパフォーマンスが注目され、人気テレビキャスターであるマーレイ・フランクリン(ロバート・デ・ニーロ)が司会を務める、憧れのトークバラエティ番組への出演依頼が届くのであるが。。。
この映画ではジョーカーことアーサーは黒人のシングルマザーに心を寄せる。偶然だが、ブログアップしたばかりの映画「パリに見出されたピアニスト」でも主人公は黒人女性と恋人関係にある。ここに来て、人種の境を超えることが諸外国では普通になってきたのであろうか?
1.ピストル
ピエロの格好といってもサーカスというわけではない。街頭での呼び込み宣伝のようなものだ。昔で言えば、チンドン屋が近いか。街頭でパフォーマンスをしていたら不良少年たちに看板を取られてしまう。懸命に追うが、看板はつぶされてしまう。そんな悲惨な姿からスタートだ。事務所の幹部からは怒られ最悪である。それを見かねた同僚がピストルをアーサーに預ける。周囲になめられないようにということだ。このピストルが映画の最後まで重要なツールになるのだ。
2.バッドマンとウェイン家
ジョーカーのルーツ話に対して、バッドマンのルーツも語られる。ジョーカーことアーサーの母親は若い頃、バッドマンことブルースウェインのウェイン家で奉公をしていたようだ。アーサーの母親は若干妄想癖があり、アーサーはあなたの息子だとブルースの父親トーマス・ウェインに手紙を書いている。手紙をのぞきみて、もしかして自分はウェイン家の息子だったのかと乗り込んでいく場面がある。でもこれも真相がわかっていき、怒りをいろんな方向にぶつけるようになる。
3.覆面デモ
貧富の差の激しさに対して、立ち上がろうとするデモが繰り広げられている。ウェインの経営する証券会社で働くエリートビジネスマンが3人殺される。目撃した人によると、犯人はピエロのような風貌だという。世論ではリッチマンが銃で撃たれたことに支持する新聞記事が多い。格差に反発したデモは増長する。
みんながピエロの覆面をしている。いかにも香港の若者が中国当局や香港政府に反発するデモを連想される。当然、そんなこととは関係せず映画は作られている。公開と重なるタイミングで香港で覆面禁止となったのがすごい偶然である。これってタイムリーだ。
「クリーム」のホワイトルームが最終に近い場面で高らかに流れる。ジャック・ブルースのリードボーカルに、若干音痴な歌をきかせるエリック・クラプトンのボーカルが続く。ホワイトというのはジョーカーのメイクを意識しているのか効果的な使われ方をしている。