映画「デルスウザーラ」は黒澤明監督が1975年旧ソ連に招かれ製作したソビエト映画だ。
1902年から数回にわたって地誌調査のために沿海州を探検したウラジミール・アルセーニエフの旅行記を基にしている。
上映された1975年、高校生の自分は有楽町の映画館で完全版「七人の侍」を見に行っている。試写には黒澤だけでなく三船敏郎、志村喬、千秋実をはじめその年亡くなった加東大介を除く六人の侍がそろったのだ。これは当時マスコミで話題になった。自分は初めてみて感動した。その時インターミッションで見ず知らずのオジサンに話しかけられた記憶がある。黒澤明論を説かれ、「自分も農家出身だけど農民は汚い」と言っていた。その年映画「デルスウザーラ」も公開されたが、気になりつつも結局行っていない。
その後見に行く機会がなかった。DVDレンタルもない。アマゾン中古価格は高価だ。ときおり記念上映がされることもあるが、スケジュールが合わない。縁がなかった。つい最近アマゾンで復刻版のDVDが発売されることを知った。購入しようとしたら売り切れだ。そんな時ツタヤ復刻版に入っていた。いつもながら本当に助かる。
1965年に1年半かかって「赤ひげ」をつくった後、翌年東宝専属を外れる。金がかかる完全主義の黒澤と縁を切ったのだ。同時に海外からの招聘にこたえる。しかし、それらはことごとくうまくいかなかった。「暴走機関車」「トラトラトラ」いずれも黒澤映画として日の目を見なかった。1970年の「どですかでん」は成功しなかった。自分もその映画はあまり好きじゃない。1971年大映倒産の年には自殺未遂をしている。最悪だ。そんなあとつくった映画である。世はまだ冷戦時代、旧ソ連は共産主義の強国であった。そんな旧ソ連から黒澤明は三顧の礼で迎えられた。
ロシアの広々とした風景をバックに、10年ほど不遇の続いた黒澤明がスケールの大きな映像を映し出していたことに感動した。映像コンテは黒澤らしく計算された美しさをもつ。
1902年アルセーニエフ(Y・サローミン)は地誌調査のために兵士6名を率いてウスリー地方にやってきた。秋のある夜アジア系少数民族ゴリド人のデルス(M・ムンズク)に会った。
隊員たちが熊と見まちがえたくらい、その動作は敏捷だった。デルスは、天然痘で妻子をなくした猟師で、家を持たず密林の中で暮らしている。自分の年齢はわからない。
翌日からデルスは一行の案内人として同行することになった。デルスの指示は的確で、森の中のちょっとした差異を見逃さない。最初はバカにしていた兵士たちも何も言えなくなるようになる。
アルセーニエフとデルスがハンカ湖に出かけた時のことである。
2人で調査にあたっていると気候は突如急変した。デルスは、アルセーニエフに一緒に草を刈り取るように言い、二人は厳寒に耐えながら草を刈り続けた。日が暮れ、猛吹雪が襲ってきた。アルセーニエフはあまりの寒さと疲労のために気を失った。気づくと吹雪がおさまりもとの静けさをとり戻していた。デルスが草で作った急造の野営小屋のおかげで凍死をまぬがれたのだ。2人の友情は徐々に強まっていった。
厳しい冬がやってきた。寒さの他に飢餓が彼らを苦しめた。この時もデルスの鋭い臭覚で焼き魚の匂いをかぎ取り、現地人の小屋で飢えをしのいだ。第一次の地誌調査の目的を達したアルセーニエフの一行はウラジオストックに帰ることになり、デルスは弾丸を少し貰うと、一行に別れを告げて密林に帰っていった。
1907年。再度ウスリー地方に探検したアルセーニエフはデルスと再会した。その頃ウスリーには、フンフーズとばれる匪賊が徘徊し、土着民の生活を破壊していた。フンフーズに襲われた土着民を助けたデルスはジャン・バオ(S・チャクモロフ)という討伐隊長にフンフーズ追跡を依頼した。
ある時自分たちの後を虎が追っていることを足跡を見て気づく。そして遭遇する。デルスは虎を撃った。必ず虎に復讐されるはずだとデルスは撃ったことを悔やんだ。デルスをアンバ(ウスリーの虎)の幻影が苦しめ極度に恐れさせた。その頃から、デルスは視力が急速におとろえ猟ができなくなった。もはや密林に住むことは許されない。デルスはアルセーニエフの誘いに応じ彼の家にすむことになった。しかし、密林以外で生活したことのないデルスにとっては、つらい生活だったが。。。。
この映画を見ながら、世界地図を開く。ウスリー、沿海州というと世界史の世界だ。1858年のアイグン条約でロシアと清の共同管理となり2年後ロシアは北京条約で奪い取る。18世紀くらいからロシアと清がそれぞれの領土拡大のために勢力争いをしていた。ピョートル1世と康熙帝が結んだネルチンスク条約はもっと極寒の地で結ばれたのかと思うと感慨深い。
ハンカ湖の位置を確認した。中国とロシアで分け合っている湖だ。ウラジオストックからも遠くはない。北海道の位置と比較して寒いのは間違いない。第2部で湖を覆っていた氷が溶ける映像が映し出される。豪快な映像だ。
この映画で一番印象的な映像はハンカ湖で嵐に遭遇する場面であろう。
デイヴィッドリーン監督の映画を連想させるロシアの雄大な光景は他の黒澤映画にはないものだ。デルスは足跡をみてこれは中国人があるいた跡だとか若者が歩いていると的確に当てる本能的な優れた才能を持っている。ハンカ湖で嵐に遭った際、自分たちの足跡が見れなくなったことですぐに引き返そうとデルスは忠告する。しかし、2人は道に迷ってしまう。コンパスどおりに行っても戻れない。銃を空に向かっても撃っても誰も反応しない。
すぐさま草を刈れという。小屋をつくるのかと連想したが、すさまじい体力がいる。それでも完成させて2人が助かる場面は爽快な印象を得た。ここでは吹き荒れる吹雪の中、懸命に生きようとする2人の執念のようなものが感じられる。そしてデルスの知恵が浮き彫りになる。実際に2人でクタクタになるまで草を刈ったそうだ。この映像は黒澤映画の長い歴史の中でも際立った名場面と言えそうだ。
「デルスウザーラ」はアカデミー賞外国映画賞に輝いている。
これは黒澤本人も予想していなかったようだ。黒澤明は授賞式には参列していない。でもこれを機に黒澤の運は上向く。「影武者」「乱」と続く。フランシスコッポラとジョージルーカスが応援して黒澤にスポンサーが現れたのである。この映画は彼にとって運を呼んだ映画だった。
1902年から数回にわたって地誌調査のために沿海州を探検したウラジミール・アルセーニエフの旅行記を基にしている。
上映された1975年、高校生の自分は有楽町の映画館で完全版「七人の侍」を見に行っている。試写には黒澤だけでなく三船敏郎、志村喬、千秋実をはじめその年亡くなった加東大介を除く六人の侍がそろったのだ。これは当時マスコミで話題になった。自分は初めてみて感動した。その時インターミッションで見ず知らずのオジサンに話しかけられた記憶がある。黒澤明論を説かれ、「自分も農家出身だけど農民は汚い」と言っていた。その年映画「デルスウザーラ」も公開されたが、気になりつつも結局行っていない。
その後見に行く機会がなかった。DVDレンタルもない。アマゾン中古価格は高価だ。ときおり記念上映がされることもあるが、スケジュールが合わない。縁がなかった。つい最近アマゾンで復刻版のDVDが発売されることを知った。購入しようとしたら売り切れだ。そんな時ツタヤ復刻版に入っていた。いつもながら本当に助かる。
1965年に1年半かかって「赤ひげ」をつくった後、翌年東宝専属を外れる。金がかかる完全主義の黒澤と縁を切ったのだ。同時に海外からの招聘にこたえる。しかし、それらはことごとくうまくいかなかった。「暴走機関車」「トラトラトラ」いずれも黒澤映画として日の目を見なかった。1970年の「どですかでん」は成功しなかった。自分もその映画はあまり好きじゃない。1971年大映倒産の年には自殺未遂をしている。最悪だ。そんなあとつくった映画である。世はまだ冷戦時代、旧ソ連は共産主義の強国であった。そんな旧ソ連から黒澤明は三顧の礼で迎えられた。
ロシアの広々とした風景をバックに、10年ほど不遇の続いた黒澤明がスケールの大きな映像を映し出していたことに感動した。映像コンテは黒澤らしく計算された美しさをもつ。
1902年アルセーニエフ(Y・サローミン)は地誌調査のために兵士6名を率いてウスリー地方にやってきた。秋のある夜アジア系少数民族ゴリド人のデルス(M・ムンズク)に会った。
隊員たちが熊と見まちがえたくらい、その動作は敏捷だった。デルスは、天然痘で妻子をなくした猟師で、家を持たず密林の中で暮らしている。自分の年齢はわからない。
翌日からデルスは一行の案内人として同行することになった。デルスの指示は的確で、森の中のちょっとした差異を見逃さない。最初はバカにしていた兵士たちも何も言えなくなるようになる。
アルセーニエフとデルスがハンカ湖に出かけた時のことである。
2人で調査にあたっていると気候は突如急変した。デルスは、アルセーニエフに一緒に草を刈り取るように言い、二人は厳寒に耐えながら草を刈り続けた。日が暮れ、猛吹雪が襲ってきた。アルセーニエフはあまりの寒さと疲労のために気を失った。気づくと吹雪がおさまりもとの静けさをとり戻していた。デルスが草で作った急造の野営小屋のおかげで凍死をまぬがれたのだ。2人の友情は徐々に強まっていった。
厳しい冬がやってきた。寒さの他に飢餓が彼らを苦しめた。この時もデルスの鋭い臭覚で焼き魚の匂いをかぎ取り、現地人の小屋で飢えをしのいだ。第一次の地誌調査の目的を達したアルセーニエフの一行はウラジオストックに帰ることになり、デルスは弾丸を少し貰うと、一行に別れを告げて密林に帰っていった。
1907年。再度ウスリー地方に探検したアルセーニエフはデルスと再会した。その頃ウスリーには、フンフーズとばれる匪賊が徘徊し、土着民の生活を破壊していた。フンフーズに襲われた土着民を助けたデルスはジャン・バオ(S・チャクモロフ)という討伐隊長にフンフーズ追跡を依頼した。
ある時自分たちの後を虎が追っていることを足跡を見て気づく。そして遭遇する。デルスは虎を撃った。必ず虎に復讐されるはずだとデルスは撃ったことを悔やんだ。デルスをアンバ(ウスリーの虎)の幻影が苦しめ極度に恐れさせた。その頃から、デルスは視力が急速におとろえ猟ができなくなった。もはや密林に住むことは許されない。デルスはアルセーニエフの誘いに応じ彼の家にすむことになった。しかし、密林以外で生活したことのないデルスにとっては、つらい生活だったが。。。。
この映画を見ながら、世界地図を開く。ウスリー、沿海州というと世界史の世界だ。1858年のアイグン条約でロシアと清の共同管理となり2年後ロシアは北京条約で奪い取る。18世紀くらいからロシアと清がそれぞれの領土拡大のために勢力争いをしていた。ピョートル1世と康熙帝が結んだネルチンスク条約はもっと極寒の地で結ばれたのかと思うと感慨深い。
ハンカ湖の位置を確認した。中国とロシアで分け合っている湖だ。ウラジオストックからも遠くはない。北海道の位置と比較して寒いのは間違いない。第2部で湖を覆っていた氷が溶ける映像が映し出される。豪快な映像だ。
この映画で一番印象的な映像はハンカ湖で嵐に遭遇する場面であろう。
デイヴィッドリーン監督の映画を連想させるロシアの雄大な光景は他の黒澤映画にはないものだ。デルスは足跡をみてこれは中国人があるいた跡だとか若者が歩いていると的確に当てる本能的な優れた才能を持っている。ハンカ湖で嵐に遭った際、自分たちの足跡が見れなくなったことですぐに引き返そうとデルスは忠告する。しかし、2人は道に迷ってしまう。コンパスどおりに行っても戻れない。銃を空に向かっても撃っても誰も反応しない。
すぐさま草を刈れという。小屋をつくるのかと連想したが、すさまじい体力がいる。それでも完成させて2人が助かる場面は爽快な印象を得た。ここでは吹き荒れる吹雪の中、懸命に生きようとする2人の執念のようなものが感じられる。そしてデルスの知恵が浮き彫りになる。実際に2人でクタクタになるまで草を刈ったそうだ。この映像は黒澤映画の長い歴史の中でも際立った名場面と言えそうだ。
「デルスウザーラ」はアカデミー賞外国映画賞に輝いている。
これは黒澤本人も予想していなかったようだ。黒澤明は授賞式には参列していない。でもこれを機に黒澤の運は上向く。「影武者」「乱」と続く。フランシスコッポラとジョージルーカスが応援して黒澤にスポンサーが現れたのである。この映画は彼にとって運を呼んだ映画だった。