教養としてのキリスト教(4)残酷な旧約、優しい新約
旧約聖書には残酷な場面が多いです。創世記のなかで神は残酷な命令をアブラハムへ与えます。
―――神は命じられた。「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。私が命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」―――アブラハムが神に従う決心をして、山に登り、刃物を持って息子を殺そうとします。しかし天使に止められ、神はアブラハムの信仰心に満足する。
このように旧約聖書の神は怖い神です。それに対してキリストの教えを書いた新約聖書の神は全ての人々を愛しています。残酷な命令をしません。人々も神を愛しなさい。人々もお互いに愛し合いなさいと教えています。「汝の敵を愛せ。」とも教えています。
キリスト教では旧約聖書と新約聖書の両方を大切にし、日曜日のミサや礼拝では両方のある部分を朗読します。その部分はお互いに関連した部分です。旧役が問題提起をして新約が解答するような場合もあります。旧と新が呼応するようになっている場合がおおいのです。日本では新約聖書のみを、少し重要視しがちな傾向があるようです。
さて、それはそれとして仏教のお釈迦様は残酷でしょうか?すべての人間に優しいでしょうか?どちらかと言えば後者と思います。でもその優しさは愛ではありません。
慈悲の心で全ての人間へ接して下さいます。人間の愚かさを悲しみながら、慈しんでくださるのです。しかしお釈迦さまは厳しさもお持ちと考えたほうが良いと思っています。以上は、神学者でもなくインド哲学も勉強したこともない私の言うことです。間違っているかも知れません。しかし私個人はこの様に考えてカトリックのミサへ出席しています。今日は日曜日。今日のミサで朗読された「創世記」のアブラハムへの残酷な命令の部分を用いて、旧約聖書と新約聖書の違いをご説明して見ました。(続く)