過ぎ去った日々を思い返ると、その当時とは違う感慨におそわれることが多い。引退後に自分の人生を振りかえって、当時とは違った感じかたを持つものらしい。そんなあれこれをシリーズ風に書いてみたいと思う。
その手始めに、現在の心境を書き、この後で、「人生の哀歓」を現在の自分から見直してみて書いてみたいと思う。
現役の間、引退後の自分を想像していた。仕事も一切無くなり淋しいだろう。仕事仲間と一緒に飲んだり談笑する機会も無い。仕事しか興味が無くて趣味もない。暇が出来ても遊び方を知らないので毎日なすこともなく、無為の日々が流れて行くだけだ。
ところが、70歳で仕事を一切止めたら、毎日がパっと明るくなって楽しくなってしまった。大げさに言えは「歓喜の日々」が流れだしたのだ。
兎に角、仕事の為にと、したいことを我慢して来たがその必要がなくなる。頭の上の暗雲が突然消えてしまった。職場が無くなるので上司に気を使う必要が一切無くなる。傲慢な自分にとってそれだけで万歳と叫びたくなる。
引退までは、他人に自慢出来るような趣味を持っていないと信じきっていた。仕事一筋が美しい人生という風潮で働いてきた。それで趣味を趣味と認めたくなかったのかも知れない。
山林の中の貧しげな小屋へ細々と通うことなど趣味として他人へは言えない。中古のヨットを、よたよたと帆走させることは自慢出来ない孤独な楽しみだ。その上、現役の間、友人もあまり居ないと信じていた。
それが、現役を引退し、数か月過ぎてみると考え方がすっかり変わってしまった。それらは立派な趣味だと考えるようになったのだ。その上、ネットの上で驚異的にも友人が多数出来たのだ。
これらの友人の掲載記事や公開日記を読んで、毎日コメントを交換している。従来は仕事仲間としか付き合っていなかった。ネットの上での友人は年齢、性別、職業がいろいろあって考え方が非常に違う。自分の視野が広がり、とたんに世間が広がったような幸福感に包まれる。
毎日が楽しくなる。自分だけが老年を楽しんでいるではない。中高年の人々が書く随筆記事や日記を読むと皆が明るく楽しそうにしている。どなたも自分の昔の職場の厭な思い出は書かない。人間は悪いことは忘れてしまう。それが老年の歓喜の日々につながる。
しかし老年になれば肉体は衰え、病気にもなる。親しい人や恩人が次々と先に死んで行く。世の中が淋しくなる。しかし、「ものは考えよう」である。先にあの世へ旅立つ親しい人々や恩人は我々が淋しい気持ちで日々を過ごしていたら決して喜ばない。それ以上に子供や孫のような若い世代も淋しい老人は見たくない。見ただけで自分も暗い気持ちになる。
それだからこそ、明るく楽しく日々を過ごす方が良い。と、信じているのだ。このように書ききっている自分があまりにも楽天的なのかも知れない。家人もまったく同じ考えだ。
下の写真のような、陽春の陽に輝く山中湖の水面を見つめながら考えた文章です。
皆様のご意見は如何でしょうか? (続く)